子どもがなくて悲観


       この方が私たちが知っているマネの作品に近いものでした。アシュモレアン博物館で。
                                            右端クリックで拡大
                               ・


                                             望みなき時も (上)
                                             創世記15章1-6節



                              (序)
  子どもたちとの礼拝は楽しいですね。思い掛けない反応をします。私たちもああだったんでしょうね。子どもらといるとリラックスする。教会が楽しくなります。

  さて、アブラハムは移民でした。今日の所は未だ「アブラム」という名ですが、やがてアブラハムと呼ばれるようになります。彼は難民ではありませんが遠く今のイラクチグリス・ユーフラテス川下流域のカルデヤのウルから、父と共に上流のハランという町に移りました。だが父の死後、妻のサラ、甥のロトを連れて今のイスラエル地方、カナンに来ました。主の言葉に従って、国を出、故郷の人たちと別れてやって来たのです。

  カナンは彼にとって見ず知らずの異境の世界です。飢饉に襲われてエジプトに避難せざるを得ないこともありました。だがエジプトで国外追放になり、再びカナンに戻りました。昨今の難民の辛さを思わされます。彼は主の言葉に従った旅でしたが、1転、2転、3転、4転、根付くべき土地がなく、不安定な生活をしていました。

  家を持たずテント生活です。常にあちこちに移動の生活でした。その内、最初は元気だったアブラハムも将来への望みは消え、年もとり、落胆していったのです。

  私たちもそうですが、生きて行くには希望がなくてはなりません。どんな人も希望があれば前進できますが、無いと人生から喜びが減退します。彼は子どもが欲しいと望んでいました。だがいつまでも生まれず、段々歳を取り、もはや不可能な年齢になりました。子どもがいれば人生が途中で終わっても、更に先に延びて行く可能性がありますが、彼は将来に望みがないと悲観したのです。

          (つづく)


                                         2018年6月3日


                                         板橋大山教会  上垣勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・