読めば読むほど輝いて来ます


       ピッサロ(1830-1903)「窓からの景色」。アシュモレアン博物館で。     右端クリックで拡大
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                                          神の栄光を求める人 (上)
                                          ヨハネ7章14-18節



                               (序)
  爽やかな一陣の風が会堂に吹いたようなお話をありがとうございました。子ども達も最初から引き込まれ、あれあれっと思ううちに納得して聞いていたと思います。

                               (1)
  さて、今日のヨハネ7章の個所から32節以下に掛けて、また次の8章に掛けて、やがてユダヤ当局がイエスの逮捕に向かうプロセスが書かれて行きます。その中でイエスは何を唱え、何を証しされたか、民衆の反応はどうであったかなど。興味あることが出て来ます。イエスは一人のユダヤ人として、一人の人間として、聖書を深く味わい、熟読玩味してご自分の霊的な糧としておられたことも窺わせられる個所です。

  最初にこうありました。「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に登って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて……。」

  7章の最初には、イエスの兄弟たちがイエスに対し、公けに知られようとしながら、密かに行動する人などいない。だから大勢の人がエルサレムに集る仮庵の祭りにあなたは行くべきですと勧めましたが、イエスは、今は行かないと言って固辞されたとあります。

  ところが祭りが盛り上がる後半になると、イエスは思いを変えたかのように、エルサレム神殿に上って行き、教えられました。私たちは自分の言葉に囚われることがありますが、イエスは前に言ったからどうのこうのと自分の言葉に縛られず、ご自分からも自由であられたということでしょうか。いずれにせよ、イエスが神殿に行って話すと、ユダヤ人らは話に驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言ったというのです。

  このユダヤ人たちはユダヤ教の当局者でなく一般民衆でしょう。「聖書」とあるのは文書や文献、聖書を指す言葉ですが、イエスは学問を積んだこともなく、文書や文献を学んだり聖書を勉強したりしたこともないのに、なぜこんなに詳細に知っているのだと、非常に驚いたのです。

  イエスの教えは聖書の核心を捉えて、実に深い所まで教える教えであったに違いありません。「なぜ聖書をこんなに深く知っているのか」という彼らの驚きからそれが窺えます。

  するとイエス様は、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」神が私にお示し下さったことだと言われました。この言葉に、私たちの感覚では何かスッキリしないものがある気がします。「自分をお遣わしになった方の教え。」そこまで言っていいのかという、人間から見た疑念です。

  ただ、イエスは既に6章38-9節で、「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」と語っておられました。また、7章28、29節で、「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」 と言っておられます。

  同様に8章16節で、「もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである」と語られ、8章28節では、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」と言っておられます。更に42節でも、「わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである」とあります。

  イエスは、自分勝手に来たり、自分勝手に語っているのでなく、彼をお遣わしになった方によって世に来たのであり、イエスの教えはイエスご自身が編み出した独創的な教えでなく、遣わされた方の教え、神ご自身の御心であり教えであるということです。

  また誰でも神の御心を行なおうとする者は、イエスの教えは神から出たもので、神の御心まで遡るものなのか、それともイエスが自分勝手な思いつきで話しているか分かる筈だと言われました。

  イエスは天に由来し、神に由来すると、誤解を恐れずご自分のありのままの姿を言われたのです。私たちからすれば驚くべき言葉ですが、イエスは別に神がかったり偉ぶって語っておられるのではありません。もしそう言わないなら嘘になるでしょう。ご自分の事実を語られたのであって、そう語らなければ偽りになるからです。

  暫らく前にも申しましたが、私は最近、古典を読むように心掛けています。イエスの数十年前に書かれたカイザルの「ガリア戦記」とマルコポーロの「東方見聞記」を読み終え、その前はマホメットの「コーラン」を読み、また仏教の最も古い原典と言われる「ブッダの言葉」、スッタニパータと言われる言葉集も2度繰り返して精読しました。アウグスチヌスの「神の国」という膨大な書物もほぼ読みました。そして今、ミルトンの「失楽園」の後半に入り、ドストエフスキーの「白痴」を、大変感動を覚えながら読み続けています。これら紀元前のものから、中世、近世、現代のものを読みながら、世界遺産の町や自然は人気があってテレビで放映されますが、人類の知的遺産と言える古い文学や思想的遺産こそ、私たちはもっともっと知るべきだと思わされています。人類は何者なのか、何を考えて来たのかを考えさせられ、人類のルーツを思わされます。

  ただ、これらの本をいくら読んでも、聖書に匹敵したり、ましてやまさるものはほぼないという思いです。まだまだ読みたい色々なジャンルの沢山の本がありますが、聖書の凄さ、その深さ、真実さ、まさに命の書であることをますます思わされています。我田引水になるかも知れませんが、益々聖書の素晴らしさ、汲んでも汲み尽くせないその素晴らしさに驚きを覚えるのです。他のものを読めば読むほど、味が生まれ、聖書の輝きが一段と増して来ます。ぜひとも皆さん、み言葉の深さに与って下さい。

  それは、イエスの教えがこの世や人間に由来するのでなく、天に由来し、神に由来するものであるからでしょう。その深さ、真実さは神にまで遡るからです。しかもイエスはその言葉を生きられましたし、私たちを神の愛で愛し、これ程真実な深い愛はないと言って過言ではないからです。

  先程の6章の続きには、39節で、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」とあります。そこまで私たちの魂を気遣い、深く神の愛で愛して下さったということです。

        (つづく)

                                         2018年5月27日




                                         板橋大山教会  上垣勝



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