途方に暮れても


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                                        Ⅱコリント4章7-11節



                              (2)
  そして、キリストという宝が盛られていることが確かで、信じて疑われない時、私たちは変えられるのです。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」何と力強く元気が出る言葉でしょう。

  「四方から苦しめられる」とは、苦難や困窮、苦痛を受けることです。人間による苦難もあり、経済的な困窮もあります。また身体的な体の苦痛も含みます。元々は何かの原因で狭い所に詰められて、苦しめられること。袋小路に追い詰められることを指します。進退きわまるところに置かれたことのある人はこれが分かるでしょう。

  だが、そんな風になっても、キリストにつながっている限りは「行き詰まらず」、窮しない。進退きわまる狭い所に押し込められても困り果てない。自分のせいである場合もあるでしょうが、たとえトラブッてしまっても、キリストを頂けば困り果てないと語るのです。あれだけ優れたパウロ自身もやはりそうだったのでしょう。

  また、「途方に暮れても失望せず。」途方に暮れるとは、道なき所に置かれることです。時に、疑いの中に置かれることも意味しています。信仰が分からなくなる。そんな時です。神が分からない。信仰の確かさがどこにも感じられない。信仰生活というのは、時々信仰のいろはから分からなくなることがあります。その場合、私たちが神でない訳ですから、自分の信仰によって自分を支えているのでなく、神の支えで支えられていることの新たな発見が必要になります。いずれにせよ周りの状況にも自分の状況にも失望しない。なぜなら、「いつもイエスの死を体にまとっているからだ」というのです。イエスの恵みが分かるとあっけなくスランプから脱せられます。

  信仰が分からなくなる。あやふやになる。糸が切れた凧のようにどっかに飛んで行きそうになる自分がある。だが、そんな時もイエスが私のために死んで下さったという事実は否定できない。いや、今もイエスは私のために死んでおられる。私を愛し、今日も日毎に十字架に就いて死んで下さっている。その愛は今も私を追う。イエスは、このようなみすぼらしい私と共に居て下さり、永遠に居ようとしておられ、私を捨てて孤児とはしない。だから疑いの中に置かれて信仰が分からなくなっても、「失望しない。」諦(あきら)めない。下界に陽が届かなくても、厚い雲の上では太陽が燦々と輝いているように、神が見えない今も確かだと信じるのです。

  更にパウロは、「虐(しいた)げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と続けています。「虐げられる」のは、多くの敵か、強力な敵がいるからです。彼らが私を虐げ、何かがあると私に辛く当り、虐(いじ)める。そんな時にも、私たちを見捨てぬ、今なお一人の確かな友がいるのです。その人はどんな事があっても私と関係を断たぬ、信頼できる人です。それが私たち土の器に納めている宝、イエス・キリストにほかなりません。虐(しいた)げられても、主キリストは私たちとの関係を断ち切られない。棄ても、見捨てもされないのです。

        (つづく)



                                          2018年5月13日




                                         板橋大山教会  上垣勝



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