彼女の主食は稗(ひえ)めしです


              Antoniaさんと Vittorioさんは割り箸を持ってご満悦      右端クリックで拡大
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                                            少年の献げもの (下)
                                            ヨハネ6章1-15節


                               (3)
  13節には、残ったパン屑を集めると、「12の籠がいっぱいになった」と書かれています。これは聖書特有のおおげさな表現でしょうか。

  そうではないと思います。イエスへの熱い愛、信仰で献げられた純真なまごころは、それ以上の実りを生んでいくと言う事です。他の人をも満たして行くと言う事であり、信仰によってしたことは、不思議な結果が伴うのです。私たちがするのではありませんが、神がそういうことをして下さるのです。

  稗(ひえ)をご覧になったことはおありでしょうか。余りないかも知れません。私は少年時代に十姉妹とか他の小鳥を飼っていたので粟や稗を知っています。万葉時代の昔から日本にありましたが、江戸時代やそれ以前には極貧の農民たちの食糧でした。

  前に触れましたが、前にいた教会付属の幼稚園にある女の子が来ていました。痩せこけた子どもで、アレルギーが酷く、米も麦も食べれないのです。卵など絶対だめです。食べるとアレルギーが出て命の危険があります。だが稗ご飯は、食べてもアレルギーが出なかったのです。

  ある日の夕食に、お家でですがこの子はお祈りしました。「イエス様、私のために稗を作って下さって、ありがとう。」自分のために、神様が稗という植物をお作り下さっていた事への心からの感謝でした。それを聞いて思わず胸が熱くなりました。今頃彼女はどこでどうしているでしょう。

  この少年も、イエス様への心からの感謝をもっていて、パンと魚を差し出したのです。

  教会墓地は広さが12㎡あります。初めてお墓の前に立った時、私は広いなあと思いました。丘の上にあり、周りの景色がよくゆったりしています。今この墓を買えば土地だけで372万円です。見晴らしが一番いい場所ですからもっとするかも知れません。

  この墓地を教会が買うきっかけは、小学4年生の三滝慶子ちゃんの死でした。お母さんから献げられた献金が元手になりました。母子家庭の貧しいご家庭でした。初めは木の十字架を建てただけの淋しい墓でした。当時、教会の建築があり、お墓の整備まで手が回らなかったからです。その後、私たちの先輩たちの献金、会員の貸付けなどを集め、墓石など今の立派な墓地を建てたのです。このお母さんも今は墓地に入っておられます。今これを建てれば土地と合わせて1千万円近くの墓地になるでしょうね。

  私は今、献金のことを申し上げているのではありません。イエス様への愛です。私たちの信仰の在り方です。イエス様への愛こそ教会を成り立たせて来たのです。

  ヨーロッパに行けば巨大で壮麗な教会が町々にあります。それらは、豊かな者もいますが無数の貧しい人たちの熱い信仰の献げものによって建てられたものです。600年もかかって、今も建設中という教会すらあります。

  これだけもかかって今も建築中というのは、何代にもわたり、心が一つにならなければ出来ないことです。途中に戦争があり、政治や経済の考えも激変し、伝染病の蔓延があり、その他幾多の試練を乗り越えて、イエスにおいで私たちは一つであるという熱い信仰がなければできません。この事に私たちも心を注ぎたいと思います。

  最後に、「イエスはフィリポを試みるためにこう言われた」とありました。イエスは弟子たちを試みられ、それだけでなく今日の私たちや教会を試みられます。

  私たちは、当時の弟子たちと違う形ですが、こんなに進んだ時代にみ言葉は何か役に立ちましょうかと言っていないでしょうか。イエスは私を変える力があるでしょうか。少しも自分は変えられません。ちっとも変わりませんと言っていないでしょうか。

  実は、変える力があると信じて疑わないなら変えられるのに、そこまで信じないのでいつまで経っても山は動かないのではないでしょうか。私という山が動かされなければ何も動きません。私という山が動き、変えられるように、イエスに切に求めなければならないのではないでしょうか。

  少年は5つのパンと2匹の魚を差し出したのです。そんな僅かなもので男5千人。女、子どもを合わせれば1万人を超える大群衆をどうして養えるかと言った弟子たちです。イエス様、そんなお考えは甘いですと言ったのですが、少年はただイエスにお仕えしたいと思って差し出した。5000人を養いたいとか、養えるとかでなく、ただ単純に僅かなパンと魚でお仕えした。その時イエスはそれを祝福して大群衆を養われたのです。

  信仰をもって信じて行けば、イエスが私たちの僅かなものをも祝福して私たちを造り変えてお用い下さるに違いないのです。


      (完)

                                         2018年4月22日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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