お父ちゃんが治った


                   イタリアの知人を丸木美術館に案内しました    右端クリックで拡大
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                                            少年の献げもの (上)
                                            ヨハネ6章1-15節



                               (序)
  先程の子ども達へのお話はもうチョッとお聞きしたかったですね。またの機会にその先をよろしくお願いします。

                               (1)
  さて今日の個所は、イエスが弟子たちとガリラヤ湖またの名はティベリアス湖の対岸、湖の東側に渡られた時の事です。大勢の群衆がイエスの後を追ったのです。イエスが病人たちをお癒しになったのを見たからとありました。

  イエスは丘に登り、弟子たちがそば寄って来た時、沢山の群衆をご覧になり、弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねられたのです。彼はガリラヤ湖の漁師でしたから、この辺り一帯の地理に詳しいと思われたからでしょう。

  するとフィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、2百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えたのです。200万円から300万円分のパンです。トラックで運んでも数台はゆうに要ります。彼は、イエスはこんな人里離れた所で一体何を考えているのだろう。全く非現実的な考えだと言わんばかりの答えをしています。

  するとペトロの兄弟アンデレが群衆の中にいたのでしょうか、フィリポに味方して、「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」 と語ったのです。ここには他の10人のことは出て来ませんが、似たり寄ったりだったでしょう。

  そうとすれば、誰もイエスに味方する者がなかったのです。イエスは孤立無援になられた。

  孤立無援になると私たちはどうするでしょう。孤独を味わいます。気がふさぐでしょう。腹が立つ人もあるかも知れません。いきり立って、がむしゃらに自説を主張する人もあるでしょう。だが、イエスは群衆を座らせられました。この語は元来、横になること、寝そべる事を指します。イエスは、弟子たちと群衆を落ち着かせられたのです。ご自分も落ち着かれたでしょう。

  そして少年からパンと魚を受け取ると、まずパンを取って感謝の祈りをして配られ、魚も同じように配られると、群衆は欲しいだけ食べた。パン屑を集めると、何と12の籠に一杯になったと報告されています。

                               (2)
  一体、これは何を語ろうとしているのでしょう。ありもしない奇跡物語でしょうか。しかしこの個所が語るのは、先ず、弟子たちの不信仰、イエスへの不信頼です。何というか、イエスを舐めています。複数の弟子たちが寄ってたかってイエスを困らせている場面です。それが、「フィリポを試みるためであった」という言葉で、フィリポだけでなく他の弟子たちの間にも起ったことです。

  次に1人の少年が居て、大麦のパン5つと魚2匹を差し出したことです。少年とあるのは、青年でも幼児でもありません。小学生程の子どもを言います。彼は貧困家庭の少年です。というのは、大麦は家畜の飼料にする麦で、貧しい人たちの食べ物の象徴でした。いわゆるハッタイ粉の原料です。今は大麦パンと称して、小麦粉に少量の大麦を入れたパンを大麦パンなどといいますが、本来の大麦パンはパサパサで口当たりが悪く、いつも食べれば飽きが来ます。金持ちには無縁の食物でした。

  少年は、母親に作ってもらったお弁当のパンと魚を、イエスに差し出しました。なぜ差し出したのか。憶測ですが、彼の家族の1人、恐らく父親が病気で長く患って困っていたのです。ところがイエスが父の病気を治してくれたのです。2節に、「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」とあります。癒された病人の1人が少年の父親だったのでしょう。

  それでイエスがお困りなのを見て、何かしたいと思って弁当を差し出したのです。少年の純真さ、まごころが滲み出ている場面です。

  小学生程のこの少年は思ったでしょう。「もし、お父ちゃんがイエス様に救われなかったら、ボクたちの家は今頃なかっただろう。ボクたちは飢え死にし、生きていなかったか、あるいは今頃、一家離散、悲しい生活を強いられたでしょう。だが、お父ちゃんが治った。イエス様は父ちゃんを癒してくれた。一家を救ってくれた。この事を、ボクはいくら感謝しても感謝し切れない。母ちゃんが作ってくれた弁当を、イエス様に差しあげたい。こんなに少しで悪いけど、役立てて下さるならボクは嬉しい。ボクは1日ぐらい食べなくてもいいんです。平気です。」

  他の人たちも弁当をもっていたかも知れませんが、子どもは真っ先にお腹を空かせるものですが、こんな事情で彼だけが差し出したのです。

  献金というのは、こうした身銭を切る献げものです。痛みを伴ったものです。痛みを伴わない献金は、強く言えばイエス様への侮辱とまでは言わないまでも、喜ばれることではありません。少年のようなまごころ、純真さはありません。。

  いずれにせよ、イエスは少年のまごころのこもる小さな献げものを祝福してお用いになりました。

      (つづく)

                                         2018年4月22日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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