旅人のような教会


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                                          旅人である教会 (下)
                                          ヘブライ11章13-16節



                               (4)
  今日のヘブライ書は何を語ろうとしているのでしょう。それは先程触れた信仰者の旅人性であり、イエスに導かれる信仰者の群れである教会の旅人性です。個人も共同体である教会も旅人性をもっていることです。教会は旅人のような歩みと姿をしているのです。

  地上の教会は、モーセに率いられたイスラエルのように、ある場所から次の場所へ、その後また別の場所へ、主のみ言葉に導かれて旅する群れだからです。その場合、主の言葉に導かれるということ、難しい言葉で言うなら、聖書による神学的根拠がなければなりません。み言葉の根拠なしにこの世的知恵であれこれするのは、教会ではないのです。

  教会が旅人性を持つということは、教会の姿は暫定的だということでもあります。固定的でなく、暫定的です。ある時代にベストであった事も、別の時代にはベストでなくなったり、時代に全くそぐわなくなる場合があります。その辺のことは旧約聖書全巻を読めば今申し上げている意味がもっと深く理解できます。

  その場所、その時代で、神を証しするために何が必要かを祈りと共に示され、形や制度や、讃美の仕方、仕え方も、教会は信仰に基づいて作って行くのです。それが神への教会の生きた応答です。教会が生きている限り、そういう新しいあり方を主の言葉に導かれて探って行きます。人間的な自分の意見で進むではありません。

  今、私たちの教会は昨年から先週に掛けて、何と5人の信仰的に中心になっていた方が召されました。驚くのは、この10数年間、9人か10人集まっていた祈祷会のメンバー5人が召されたのです。先週、祈祷会メンバーの半数が居ないということに驚愕しました。自分は一緒に向こうに行かなくてよいのかという思いにさえなりました。経済的にもかなりの縮小です。役員会が皆さんに負担をおかけするのは心苦しく思いつつ、月定の再考をお願いしたのはそんな事情からでした。しかもその時は、中心メンバーの一人であるAさんまでこうなるとは夢にも思いませんでした。

  だが教会は旅人性を持つのでこの大きな変化にも賢明に対応出来るでしょう。必ず出来ます。教会の基本に帰れば、テントを設営しそれをたたんで次に移動し、そこでまたテントを設営する。それが可能です。

  実際に教会を畳みません。安心下さい。場所も移動しません。そうではなく過去に固執せず融通無碍(ゆうずうむげ)に変身して、変わって行くでしょう。ただ根本はキリストです。このお方への誠実であり、この方への絶対的な信頼です。逃げてはいけません。これがあれば融通無碍に狭い門を通って向こうに行くことが出来ます。ただ、今申しましたが、聖書に導かれるという中心を堅く押さえていなければなりません。そういう腰の入れた担い方です。

  イエスは弟子たちに呼びかけて、「さあ、向こう岸に渡ろう」と誘われました。私たちも向こう岸に渡ろうではありませんか。渡る前から、ガリラヤ湖の嵐は怖い、向こう岸がどうなっているのか分からないから怖い。そんなに信仰がないのでしょうか。イエスに続いて向こう岸に渡るときにだけ、イエスがどんな方であるかを、そのまことの権威を知り、主の主権に触れることが出来るのです。

  総会に向けて書いた総会資料の文章の一部をお読みいたします。

  「……板橋大山教会は、常に初心に帰り、この地への伝道の幻を忘れることなく前進しなければなりません。そのためにはイエス・キリストに従う信仰の原点に立ち返る必要があります。

  信仰の原点でありその基本は、①聖書によって養われること、②礼拝に集うこと、③信仰の交わりを大切にすることにあります。…聖書のみ言葉によって養われずして、伝道の初志を…貫くことは不可能です。教会が今までキリストの命を燃やし続けることが出来たのは、原点である聖書に熱心に養われる人があり、実際に養われて信仰の情熱を注ぐ人がいたからです。

  ……聖書に真剣に向き合っているでしょうか。キリストの言葉を切に求めているでしょうか。「日毎の糧を与えたまえ」と祈る私たちは、それが指す霊的な「日毎の糧」、すなわち聖書を霊的な食べ物として食し、生きているでしょうか。信仰が形だけになり、後退していないでしょうか。2018年度は、皆でもう一度、聖書に真摯に向かう者になろうではありませんか。この中心的なものを、心を単純にして目指して行きましょう。

  ……4人の方々が一挙に召された他、遠方に行かれた方、ご事情で暫らく県外にお住みの方、ご高齢で教会出席が少なくなった方々などがありました。だが礼拝出席の人数に余り一喜一憂せず、またそれに伴う教会会計の事にも一喜一憂せず、私たち自身が向かうべき方にしっかりと向かい、このお方によって生かされて行くなら、必ず教会は堅実に進んで行けるでしょう。主は大山教会という小舟の乗組員に、今も、ガリラヤ湖で弟子たちに語られた、「恐れるな。信仰がないのか」という檄(げき)を飛ばしておられます。一喜一憂と思い煩いからは何も喜ばしいものや晴々した信仰の証しは生まれません。

  ……「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(Ⅱコリント4:9-10)

  キリスト教会は11人の弟子たちから始まったのです。ユダが裏切った後、それを補いますが、いずれにせよ僅かな人たちが復活のイエスを信じて世に出て福音を語って行った結果、全世界に広まって行ったのです。


       (完)

                                         2018年4月15日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


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