なんておめでたい


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                                          旅人である教会 (上)
                                          ヘブライ11章13-16節



                              (1)
  今日は礼拝に続き、新年度の教会総会があります。各教会は独立採算制であり、独立した宗教法人ですから、私たち会員がこの教会をどうして行くかを信仰に基づいて相談し運営して行きます。ですから、会員の皆さんは出席下さるようにお願い致します。

  今日の聖書は、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」と語っていました。よそ者であり、仮住まいであるのを喜びを持って歓声をあげたというのです。

  「この人たち」とは、4節以下に挙げられたアベル、エノク、ノア、アブラハムと妻のサラ、イサク、ヤコブなどを指します。中でもアブラハムが、行く先を知らずに、神の言葉に従って故郷を後にした時から始まる信仰者たちです。彼らは、「皆、信仰を抱いて死にました」と語っています。

  11章は、4節、8節などのように、彼らは「信仰によって…をした」という言葉が約15回出て来ます。1章にこれ程同じキーワードが出て来るのは異常ですが、それほど「信仰によって」ということが聖書時代の人たちにとって重要だということを反映されています。更に23節以下でも、「信仰によってモーセは…」などと、モーセ以降の人たちも信仰によって歩み、信仰によって導かれたと語っています。

  これは旧約の民ですが、キリストにある新約の民も聖書の民であり、「信仰によって」ということがいかに大切で、私たちの信仰の原点、源であるかを物語っています。

  さて、信仰を抱いて世を去ったこの人たちですが、不思議な事に、皆、「約束されたものを手に入れ」なかったと語るのです。彼らは約束のものを目に見える形で手にせず死んだのです。

  アブラハムは100才、サラは90才、不妊の女性でした。それまで一度も約束は果たされませんでした。彼らは子どもに関しては、12節にあるようにいわば、「死んだも同様」の人間、古い日本語で差別的な言葉に石女(うまずめ)という言葉がありますが、そういう女性だと語っています。

  だが、2人は神の約束を遥かに見て生きたのです。その結果、100才のアブラハムとサラとの間に実子イサクが授けられ、イサクによって「海辺の数え切れない砂」のような子孫が生まれる可能性が生まれます。だがそれでもアブラハムが生きている間に、「浜辺の数え切れない砂」のような子孫を授かった訳ではありません。

  そういう訳でないのに、彼らは「はるかにそれを見て喜びの声をあげ」て生きた。そして「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した」と言うのです。

  未だ何も確かなものを現実に手にしていないのに、約束を仰ぎ見て、喜びの声をあげて生きた。何とおめでたい人たちかと思うかも知れません。だが彼らは約束を仰ぎ見て欣喜雀躍、喜びの歓声をあげて生きた。信仰者には、こういう喜びが何才になっても起ります。やがて涸れるのでないかと思ったりしますが、私は日々神に向かう時に、どこから湧いて来るのか知れない新鮮な喜びを授けられます。しかも年齢と共に、不思議に増し加わっています。

  実際、自分の高校時代や青年時代からして、晩年近くなってこんな生活をするとは思いませんでした。というのは今、7年ほど前にテゼ共同体で知り合った5、60代のイタリア人2人を5泊お泊めして交わりを深め、丁度いいのでAさんにもおいで頂いて、突然独り身になって気落ちしていらっしゃる兄弟を少しでも慰め、励ましたいと会食しましたが、こんな事は昔の自分には考えられません。これらの信仰者と話す中で色々信仰的に気づかされることも多く、私自身喜びの声を挙げていますし、もっと大きな喜びの声を挙げる日があるのでないかと思っています。

  「はるかにそれを見て」とは、とても遠方を仰ぎ見ることを言います。1年や2年でなく、千年、2千年、いや1万年の先を仰ぎ見て「喜びの声をあげて」生きることでしょう。1万年先に与えられるかも知れないものを、明日約束が与えられるかのように、今日、喜びの声をあげて生きるのです。信仰者とは実に不思議な人たちです。

  主を信じる者たちの息の長さです。百年程の人の寿命の長さでなく、人類の歴史を遥かに超える長いスパンで神の働きを見ています。人はどんなに高慢に振舞っても、歴史を創り、導く神に抗(あらが)うことは出来ません。決して出来ません。

       (つづく)

                                         2018年4月15日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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