未完の者の完全


                  リンカーン・カレッジのジョン・ウエスレー       右端クリックで拡大
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                                           神からの賞 (下)

                                           フィリピ3章12-16節


                              (2)
  12節の、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」ということと、13節の、「わたし自身は既に捕らえたとは思っていません」とは、ほぼ同じ内容の繰り返しです。繰り返すのは重要だからです。

  自分は未だ捕えたと思わない。彼は、自分の未完を自覚して主を仰ぐのです。そこに彼の謙虚さがあります。主を仰がないと、人はすぐ驕(おごり)が出ます。彼の信仰は、「キリストこそ、我が主(しゅ)なり」という信仰です。われが主(あるじ)にならない。わが主(あるじ)はキリストであり、われが主にならない故に、完全の高みに立って他を裁かないのです。即ち、われへの監視があるところで、愛が生まれるのです。また、愛の生まない信仰は信仰ではないでしょう。

  この教会を創立した大塩先生は福音信仰について書いて、「主の恵みは不信仰者に対しても全ての人に分け隔てなく注がれるものであるから、福音的信仰は、あらゆる分け隔てを取り除き、主にある兄弟姉妹の交わり、教会を作る聖霊の愛の働きに言葉と業とをもって仕えることになる」と書いておられます。これは即ち、今お話している、信仰から愛が生まれる。愛の生まない信仰はないということです。

  愛を生まない信仰はなく、「キリストこそわが主なり。」ここから、怒り、恨み、赦せない、そしり、殺意、高慢は出て来ません。父や母を許せないとか、あの兄弟が許せないという人が非常に多いです。だが「キリストこそわが主なり。」ここからは悔い改めの信仰が出て来ます。悔い改めこそキリスト者キリスト者である必須条件です。自己の罪の悔い改めです。少しも自分の罪と妥協せず、罪を悉(ことごと)くキリストの前に持ち出し、吐き出して悔い改める。その時、その人の生き方が変えられ、方向転換が起ります。

  それでもなお、彼が言うように、「既にそれを得たという訳ではない」ということです。彼が今いるのは、「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」ということです。抵抗できないほどに捕えられているということです。

  そこで、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と申します。自分が集中して為すべきことは唯一つ、後ろのもの、即ち自分の経歴や栄誉や身分や今の地位、家柄、才能などに基づかない。それを傘に着て誇らない。

  私たちの信仰と生き方は、そうあるべきだというのです。私はパウロの生き方に全面的にそうだと思います。誰かと競争しているのではありません。神が、キリストが私たちの目当てです。このお方が下さる賞を得るために走るのです。自己鍛錬です。自己修練です。切磋琢磨です。自己との闘いです。他との闘いごとではありません。また争いを作り出すのではありません。神と私の関係が最重要です。ひたすらとは、最善をなすことです。

  「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために。」何と素晴らしい走りでしょう。前方にキリストがおられます。私たちの目標はキリストに達することです。しかもキリストは私たちを固く捉えて下さっています。安心して走ればいいのです。安心して、慌てず、全力を尽くして走るのです。

  再度申しますが、これは他人との比較ではありません。キリスト・イエスにあって、神がお与えになる賞を目指して生きることです。来週の聖書個所との関連では、天国を目指して、地上を旅人として生きることです。

  彼は自分を基準としません。神、キリストを基準として生きます。キリスト者とは神を基準として生きる人です。ですから、自分が砕かれること、神に裁かれ、造り変えられることを目指して生きています。神に裁かれ、砕かれることを嫌う人はキリスト者とは言い難いでしょう。それを喜ぶ人こそキリストに生きている者です。

  ただ神の賞のみを目指し、目標を目指してひたすら走るのです。彼の謙遜は、過去に得たものに基づかない所にあります。少し前では、過去の立派な業績なども、糞土(ふんど)のように思っていると語っています。今は「塵あくた」となっていますが、前の口語訳は糞土となっていました。糞土とは腐ったもの、汚いものという意味です。一般には名誉であるものも、自分には糞土だ、汚れたものだ。そんなものを名誉にしたり、威張っていれば人間として汚れるからです。腐るからです。

  部長であるとか、社長であるとか。皆の前で滔々としゃべれるとか。自分のそんなものは鼻もひっかけない。自分など神の前では、憐れみがなければ、神から鼻もひっかけられないような下らない人間だからです。ただキリストのみ尊としとして上へと召して下さるお方の賞を得ようとして生きる。

  自分など神の前では鼻もひっかけられず、屁とも思われないような人間だ。こういう自分を突き放す社長さん、部長さんが居れば、平社員でもいいですが、そんな人が居れば、変わっているとは思われるでしょうが、皆が励まされるでしょう。彼は真に自由の中で生きているからです。その自由は謙遜を生み、柔和を生み、平和も和解も生む自由です。

  こう言って彼は、「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」と申します。ここに言う「完全」はスピリチュアルな完全です。信仰的完全です。

  しかもその完全とは、これまで述べたように未完の完全です。祈り、愛することが出来るようにと祈り求める。もっと愛深くある人であらせて下さいと切に祈り求める。そして最善をなして、ひたすら走る。

  私たちは途上の者です。完成者ではない。だが、それで不完全な所でトグロを巻いてへたり込んで、そこに居座っているのでなく、この未完の者が神に向かってひたすら走るのです。このような未完の者が完全な者だ。パウロはこう語り、それを生きたのです。

  先週詳しくお話ししましたアウグスチヌスが、私たちは徳を積むことが大切だと言っています。徳や徳性です。ベートーベンも、「徳性だけが人間を幸福にする。金銭ではない。惨めさの中でさえ私を支えて来たのは徳性であった」と言っていますが、アウグスチヌスの方は、徳性を語りつつ、「しかし完成は神においてのみ」達成されると語ります。

  そうです。私たちは努力します。だが完成は神にあります。そこに私たちの望みがあります。私たちは唯1人で生きているのでなく、神が共に生きて下さっているのです。


        (完)


                                         2018年4月8日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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