情欲に同意してしまう自分


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                                           特にペトロに (下)
                                           2018年4月1日



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  昨年、出口和彦という人の「アウグスチヌス」という本が出ました。これ迄で一番読みやすいアウグスチヌスの入門書です。アウグスチヌスは西暦354年から430年の人です。彼の「告白」は一般にも広く読まれ、「神の国」は信仰と現実社会を書いた膨大な書物です。

  彼は、聖徳太子の約200年前の人物ですが、既に現代人の顔をしているのには驚かされます。顔と言っても実際の物理的な顔でなく、心や考え方です。

  彼は、「自分を喜ばせたのは、愛し愛される事だけでした」と書いています。10代前半、故郷で怠惰な生活をしていた頃、同じ町の仲間と連れだって、真夜中に人家の庭に忍び込み、たわわに実る西洋梨を盗んだことがありました。43才で書き始めた「告白」でこう書いています。「いっぱい実を盗んで帰りましたが、自分たちで食べて楽しむのでなく、幾つかは食べましたが結局豚に投げてやるかしました。空腹の為に盗んだのでなく、ただ禁じられているが故に、そうするのが面白かったからやったのです。」これが私の心なのですと語ります。禁じられているから、やる。面白がってみんなで、やる。10代の現代っ子と同じです。

  即ち、自分が愛したのは盗むという行為でなく、一緒にやった連中と仲間を組むことを愛していた。仲間と信頼し合い、愛し、愛される関係です。暴走族の心理です。

  16か7才で同棲し始め、18で息子が生まれます。これも愛を確かめる行為でした。それほど人は何か確かなもの、頼りになるものを求めているのです。ということは暗黙の不安を皆持っていることでもあるでしょう。

  やがてアウグスチヌスと正式に結婚する女性が現われ、同棲していた女性は息子を残して去って行き、彼はショックを受けます。婚約したが、相手は未だ結婚年令に達しておらず、2年待たねばなりませんでした。ところが2年を待てず、やみくもに他の女性と肉体関係を持ち、ずるずると情欲の傷口は広がり化膿して行きます。心や人格が腐って行くのを感じるのです。

  正式な結婚をしようとしたに拘わらず、これまで考えもしなかった情事に走ってしまったのです。彼は考えます。問題は、情欲が起こること自体でなく、その情欲に同意してしまう自らの意志の問題だと。

  昔の梨の盗みの時の行動の矛盾よりもっと切実な形で、彼は自分を苛(さいな)むのです。自分が悪だと思っている事、しなくてよいことを敢えてしてしまう自分の弱さが身に沁みて思われるのです。

  これは、パウロがローマ書7章で、「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、却って憎んでいる事をするからです。…善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行なわず、望まない悪を行なっている。…私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるのでしょうか」と語った事柄です。

  アウグスチヌスにとって、問題はそのことに同意を与え、自ら行なってしまう意志そのものでした。意志が問題なら、情欲や衝動のせいに出来ず、自分の責任が生まれます。「悪をなす原因は、自分たちの自由意思、意志の自由な選択にある」と語った、彼の師アンブロシウスの言葉が、身につまされて理解されるようになります。悪をなしてしまう自分の自由意志、また責任です。

  同時に、このような自分の姿を見て、憐れみを覚えてくれるのはいったい誰かと思うようになり、やがて彼は、神に呼び掛けて祈り始めたのです。これが彼のキリスト教信仰への目覚めです。

  彼はこう語ります。自分の心の密室では、神に仕えようとする意志と、それを厭(いと)う意志と、更にその厭っている意志を叱咤(しった)する意志とが、三つ巴(どもえ)で争っている。もう少しの所で決心するかと思えば、「いやまだだ、明日になれば、明日になれば」と先送りしてしまう。いよいよ今日かとなると、これまで習慣的に馴染んで来た「あんなことも、こんなことも」出来なくなってしまうのに、自分は耐えられるだろうかと、習慣の重さがのしかかって来る。我と我が身を、心底「あわれ」と思わざるを得ない有様である。出口和彦さんは、アウグスチヌスの心の葛藤を見事にえぐって見せます。

  「特にペトロに」と言われたのは、彼の挫折にも拘らずその先に復活のイエスが待っておられることを教えるためです。悪をなすことを、他に責任を負わすことはできません。意志の問題です。じゃあその意志を強くすれば自分に打ち勝つことが出来るのか。出来ない所に罪の力の強さがあり、負けてしまう情けない自分があります。実に人の心は厄介(やっかい)です。

  そんな自分をどこかで見ていて下さり、憐れんで下さる方がある。復活のイエスは、今も哀れで厄介な心をもつあなたを捨てないのです。イエスガリラヤであなたをお待ちなのです。ガリラヤは弟子たちとペトロの故郷です。日常生活がある場所です。そこでイエスはいつもお会い下さる。この大切な事をペトロに特に告げよというのです。

  この言葉は、ペトロだけでなく私たちにも語られています。それは罪に負けてしまう情けない私たちが、もう一度立ち上がって出直して行くためです。いや、幾度でも、幾度でも出直して行くために、私たちに語られているのです。

  イエスは復活されたのです。どんな厄介な問題で悩んでいてもあなたは捨てられることはないのです。詩編にあるように、私たちの弱さや挫折にも拘らず、私たちの救いは天で既に確立しています。


       (完)

                                         マルコ16章1-8節



                                         板橋大山教会  上垣勝



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