てっぺんは頂上じゃあない


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                                           あなたの王が来る (下)
                                           ヨハネ12章12-16節



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  「イエスが栄光を受けられたとき、…思い出した」とありました。

  イエスの栄光とは、イエスが眩いばかりに栄光に輝いた時と言うのではありません。後光が差すような栄光でなく、既に触れましたように十字架の死を指します。イエスが後に、十字架の死によって神に栄光を帰された時に、弟子たちはハッとその意味を悟ったのです。

  お読みの方がいらっしゃるかも知れませんが、去年、「淳子のてっぺん」という本が出ました。登山家の田部井淳子さんの実話を小説にしたものです。「女などに、エベレストが登れるものか」という言葉に反発して、女性だけで登山隊を組んでエベレストに初登頂したことを、直木賞作家が本にしたものです。

  彼女たちはエベレストの前に、エベレストよりも危険と言われるアンナプルナに登頂しています。その登頂に向かう時に、田部井さんはご主人に、「必ず頂上に立って見せるから」と力んで約束するんです。すると御主人が、「言っとくけど、てっぺんは頂上じゃあないからな」と謎めいたことを言ったんです。てっぺんは頂上ではない。「え?」と聞き返すと、「淳子のてっぺんはここだよ。必ず無事に俺の所に帰って来るんだ」と言ったというのです。アンナプルナの頂上に立っても、そこがてっぺんじゃない。この家が君のてっぺんだと、ユーモラスな、愛情あふれた会話です。

  エルサレムへ、王として誤解の内に歓迎されての入城。群衆の大歓声。だがイエスは馬でなくロバの子で入場されました。それは彼らへの否でした。王としての入場がてっぺんではないからです。エルサレムという都、頂点に上るのはこの世の王の名誉かも知れません。だがイエスにとって、十字架がてっぺんです。神に従い、人の罪の為に十字架の上にお架かりくださる。それが人の子イエスの本当のてっぺんです。そして、イエスが、罪にまみれた私の罪のてっぺんで、赦しを携えて待って下さっているのです。そこがてっぺんです。

  詩編に、「主よ、とこしえにみ言葉は天に確立しています」とあります。救いは既にイエスによって天に確立しているのです。イエスはそれを確立するために来られたのです。私の信仰の深さによらず、聖書の理解力のいかんによらず、私の救いは既に天で確立している。「事、既に成れり」です。もったいないことです。

  それは、ただ私たちのためです。この罪深い、怠惰な、救い難い、屁理屈を言ってのらりくらりしている者を救うために、イエスは私の代わりに十字架に上ってくださったのです。

  今週は受難週です。今週の木曜日に最後の晩餐をし、金曜日に私たちの為に十字架にお付き下さったのです。


        (完)

                                         2018年3月25日




                                         板橋大山教会  上垣勝



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