愛する勇気


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                                            愛の勇気 (下)
                                            マタイ8章1-4節



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  イエスは彼を抱きしめて、「よろしい。清くなれ」と彼の耳元で囁かれると、たちまち重い皮膚病は清くなったとあります。

  イエスが為された事は明らかに律法違反です。掟を破って抱き締め、癒されたのです。この事がやがてファリサイ人や律法学者たちの取り締まり強化につながり、逮捕と十字架の処刑につながって行きますが、愛の勇気を持って彼をここまで受け留められたのです。

  群衆は目の前でこの男に癒しが行われるのを見て、イエスの愛の勇気に強烈な印象を受けたでしょう。「求めよ、さらば与えられん」と、先程、山で聴いた言葉が目の前で行なわれたのですから、イエスは言葉だけでなく行為で語られる方、言行が一致した方だと知り、益々信頼を抱いたでしょう。

  8章を見ると、イエスは先ずこのハンセン病の男を癒し、5節以下では百人隊長の僕を癒し、14節以下でペトロの姑(しゅうとめ)を癒されました。その後17節で、「彼は、私たちの患いを負い、私たちの病を担った」というイザヤ書が引用されています。

  イザヤ書の引用で何を言いたいのでしょう。それは、イエスは真(まこと)の医者であるということでしょう。真の医者の使命は、病に苦しむ患者に真摯に向き合い、それを自分の身に負い、自分も苦しみつつ共に生きることであるからです。医は仁術とはこのことです。医が算術になっちゃあ堕落です。

  有吉佐和子の「華岡青洲の妻」という小説は嫁と姑の葛藤が主題の名作ですが、ストーリーは、自ら骨身を削り、身内の者をも犠牲にさらして全身全霊で世界初の全身麻酔の開発をする紀州の医者の姿を描いています。そこにあるのは病人を治してあげたいという熱情です。色々な問題も含みますが、苦しみつつ共に生きる医者の姿です。

  イエスは薬で癒されたのではないと8章は言いたいのです。人々の患いをご自分の身に負い、それを引き受け、その人から病患を取り去られたとイザヤ書は語るのです。それは愛そのもの、愛する勇気そのものだということです。ここに、信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るために来られた、ナザレのイエスの姿があります。

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  最後に、「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい」と語って、彼を帰されました。

  イエスは彼にモーセの律法を破らせませんでした。ユダヤ人の習慣を破らず、正規の手続きを踏んで、男が安心して社会復帰できるようにしておられます。一切を彼の今後の社会生活の為です。

  イエスは最後に、私の事を誰にも言うな、誰にも自慢するなと男に言われました。もしイエスの癒しだけが宣伝されてそれが独り歩きすれば、人々は神の福音でなく、病気の癒しだけを求めて集まって来るだろうからです。そうなれば、イエスが何の為に世に来られたかが分からなくなり、神の福音が誤解されます。

  それに、これほどの権威を持つ者が登場したとなれば、人々はイエスを押し立て、政治的リーダーに祭り上げ、軍事的リーダーに押し上げる可能性があったからです。

  いずれにせよ、イエスはこれまで誰もしたことがない程の愛の勇気を持って、社会の片隅で生きていた1人の貧しい男をしっかりと大胆に受け止め、社会復帰に導かれたのです。


    (完)

                                         2018年3月11日




                                         板橋大山教会  上垣勝



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