心がつぶれて


               結婚パーティー(オックスフォードのケーキ屋さんで)       右端クリックで拡大
                               ・


                                            愛の勇気 (中)
                                            マタイ8章1-4節



                              (2)
  するとそこへ、1人の重い皮膚病を患う男が近寄って来て、イエスを拝まんばかりにひれ伏して、願ったのです。こうありました。「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」

  当時のユダヤでは、彼らは忌み嫌われ、城壁のある街なら扉を固く閉ざしました。何も悪者でないのに罪人にされ、汚れた者として嫌悪され、本人または先祖の罪の報いと見なされて一般社会から排除されたのです。ユダヤ教キリスト教と違って、日本の仏教と同じような因果応報の考えが色濃くあるのです。また健康人には2m以上近づいてはならず、遠く離れた所から、「自分は汚れたものだ」と叫ばなければならず、風上の場合は50m以上離れなければならなかったのです。人権も何もあったものではありません。

  ところがイエスが坂を下って行かれると、重い皮膚病を患ったハンセン病の男が、「イエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」のです。

  この場面をご想像ください。彼は人に近づいてならないのに、禁を破って近づいた。「自分は汚れた人間だ」と呼ばわらなければならないのに、イエスの足元に「ひれ伏して」願ったのです。

  「ひれ伏す」とは敬礼を意味し、謙虚になって礼拝すること指します。律法が厳禁する掟を破って近寄り、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と拝みつつ頼んだ。ここに彼の人生の苦渋と呻き、癒しへの激しい熱意が見て取れます。

  また、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という言葉に、イエスへの全幅の信頼と信仰がうかがえます。「御心ならば」とは、あなたの意志であるならばという事です。あなたのお心次第ですとすっかり委ねているのです。何とイエスへのあつい信頼でしょう。どこでどうイエス様のことを知ったのかは分かりませんが、沢山の群衆が後からついて来る中、イエスの前に躍り出て、「あなたが御望みになるなら、私は癒されるのです」と語ったのです。相当の勇気です。相当、覚悟がなければできません。彼はこのお方にのみ掛けていたに違いありません。

  彼の言葉から想像すると、自分は皆から忌み嫌われているハンセン病です。重い皮膚病、らい病やみです。誰もが逃げて行き、私と関わりを持とうとしません。親も兄弟も近所の人も皆、私を捨てて逃げました。私はこの世に生まれて、生きているのが真底(しんそこ)つろうございます。死んでしまおうかと思った事さえございました。私はもはや人ではないのです。親子の縁が切られ、兄弟関係も断たれ、そのうち病気が進行すればどう生きて行けばいか分かりません。もう心がつぶれて死んだも同然です。

  この間、何人かの方と話していて、昔、結核になると田舎の田んぼの真ん中に小さな掘立小屋を作って、唯ひとり住まわせる家があったと言っておられました。ただその場合は未だ家族が時々食べ物を持って行っていたでしょう。だがハンセン病になれば、戦前までは、戸籍から抹殺されましたよ。氏名を変えさせられて隔離された療養所に送られました。小学生ぐらいで送られた人もあります。

  そんな中でこの男は、「だが、あなたは神の憐れみを持ち、私のような忌み嫌われる者にも御力を注いで下さる事を存じ上げています」と迫ったのです。彼は実に謙虚です。彼の謙虚と熱い火のような熱意がイエスに届かない筈はありません。

  するとイエスは手を差し伸べて、彼に触れ、「よろしい。清くなれ」とおっしゃったのです。感動的な場面です。避けるのでなく、「分かりました」と言って触れられたのです。厳しい律法の掟を破って彼に触れられたのです。しかも「触れる」とあるのは、ご自分に彼を結びつけること、彼と人格関係を持って強く抱きしめる事を指します。

  イエスは彼を両腕でしっかりと抱きしめられたでしょう。ハンセン病なら決してしてはならぬことです。だが、イエスは先程まで山の上で、多くの人に、「求めよ、さらば与えられん。捜せ、そうすれば見つかる。門を叩け、そうすれば開かれる」と教えておられました。今、山を降り、目の前にひれ伏したこの男は、切に求める人です、救いを捜す人です、人生の門を叩く人でした。

  だからこそイエスは彼に触り、触るだけでなくご自分を男に結びつけて、しっかり抱きかかえられたのです。なんと大胆かつ勇敢な行為でしょう。「完全な愛は恐れを取り除く」とヨハネの第1の手紙が語る通りです。神のアガペーの愛をもって真実に男を受け留められたのです。

  長く生きて来ますと、社会に、心の病んでいる人がいかに多くいらっしゃるかを知らされます。病気でなくても、極めて孤独な人、自分から社会に出て行けなくて心を閉ざしている人、現実に部屋で閉じこもっている人、色々な心の傷を受けて、それが解決されずに呻いている人など、実に多くの形でおられます。

  彼らが突き当たっている1つの壁は、責任を持って受け留めてくれる人がいないことです。親も兄弟も親戚も、医療機関も、社会福祉も、誰もAさんならAさんの人生を、本当に心配して受け留めてくれない。当然と言えばそうですが、温かく心を留めてくれない。そんな事をすればこちらが倒れてしまうというのが、その理由です。

  病院の精神科で働く方と話していて思いました。精神科にかかって入院します。何カ月かして退院する。その後そこに通院します。でも何かのことで来なくなる。そうすればそれっきりです。その人のことを心配するってことはない。その人を案じて探し回るってことはない。

  この社会には誰も受け留めてくれる人がいないことに、人としての呻(うめ)きが残ります。1匹の迷い出た羊を、見つけ出すまで捜す人がいない。これで本当にいいのかと思います。

  だがイエスだけはこの恐ろしい皮膚病を患う男を抱きしめられたのです。迷い出た羊を捜し出して下さった。どこにも行きようのない男を、イエスは両腕に抱いて受け留められたのです。

  ヨハネ福音書1章に、「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とあります。言とあるのはロゴスというギリシャ語ですがキリストを指しています。キリストの内には命があり、その命は人の光であり、世の光としていわば燭台の上に置かれているのです。それは闇の世に輝く光です。この光は、闇が自分を理解しようと、しなかろうと、今も、闇の中に輝いているのです。それは迷い出た1匹の羊を最後まで捜し出そうと輝く光です。

  思うに、私たちの最後の拠り所はこのお方しかいません。このお方から離れてどこに行けばいいでしょう。どこにも拠り所は見つけられないでしょう。


    (つづく)

                                         2018年3月11日




                                         板橋大山教会  上垣勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・