らい病と重い皮膚病


                記憶がかすみますが確かソールズ・カレッジの塔        右端クリックで拡大
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                                            愛の勇気 (上)
                                            マタイ8章1-4節



                               (序)
  今、司会者は、「らい病」とお読みになりました。何人かの方は、「あれ?」とお思いになったと思います。実は同じ新共同訳聖書ですが、あるものは「らい病」となっており、他のものは「重い皮膚病」となっているのです。「らい病」となっている聖書をお持ちの方は何人程あるでしょう?では「重い皮膚病」となっている聖書をお持ちの方は?ありがとうございました。そう、半々ぐらいですね。私のは「らい病」となっていますが、「らい病」を消して「重い皮膚病」に訂正しているのです。

  実はこの違いは、1990年代に、「らい病」という言葉は差別用語だという強い発言が社会に起って、聖書翻訳でも色々な見解が出された末、「らい病」から「重い皮膚病」に改訂されたからです。初版は「らい病」でしたが、90年代になってからの版で変わったのです。

  しかし今でも、ここは原語に忠実に、「らい病」あるいは「ハンセン病」と訳すべきだと主張する当のハンセン病の人たちがおられます。らい病を重い皮膚病に変えたりハンセン病に変えても差別の実態は変わらないからで、差別の心が画期的に新しく改められないない限りことばだけを変えても差別は残るからです。また、この言葉は元々、ライを表わすギリシャ語のレプラという言葉が使われているからです。

  レプラは、恐ろしい皮膚病で、進行すると神経が侵されて手足が腐り、視神経が侵されて見えなくなり、耳も口も鼻もすっかり落ちて、グロテスクな実に恐ろしい形相になることがあります。

  私は青森で、毎年、癩(らい)の療養所に通っていた事がありますが、もうその頃はそれほどの方は少なかったですが、それでも酷い後遺症の傷跡を持っている方々がありました。以前お話したことがありますが、ある人が療養所内の畑仕事から帰って来て――昔は自給自足みたいな生活だったのです――、酷く疲れて長靴のままゴロンとなったんですね。朝、目を覚ますと、長靴をはいているじゃありませんか。脱ごうとしたが中々脱げない。それで長靴の裏を見たら、何と、5寸釘が長靴を貫き、足に刺さっていたのです。癩(らい)菌で神経がやられて感覚がないのです。これじゃあたまったものじゃありません。それで足が腐り、手が腐り、達磨さんみたいになる人もある。一日、床にゴロンと転がされているというような生活です。

  古代社会における、この病気の恐るべき実態から目を逸らさせるような「重い皮膚病」という言葉は、現代人に誤解を与える可能性があるから、「らい病」または「ハンセン病」とはっきり言う方がいいというわけです。

  戦前にプロミンが発見され、戦後日本に入って来て、今はハンセン病は日本からも撲滅されましたが、プロミンが発明される迄のハンセン病患者の実態を考えなければ、その方々の差別されて舐めた塗炭の苦しみ、魂深くこびりついた差別の苦しみは到底理解できないでしょう。

  予定していたのと違った所から話し始めてしまいましたが、これは大事なことです。

                               (1)
  さて、マタイ8章は、5章から始まった山上の説教が7章で終わり、いよいよイエス様がガリラヤの町や村を廻って、神の国の福音を説き始められます。その最初の一歩が、「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った」とある言葉です。

  先程まで、今は祝福の山と呼ばれる丘で、沢山の民衆が、点々と転がる大きな石に思い思いに腰をかけたり、蝶などが飛びかう草むらに座ったり、時には病人たちを草はらに寝かしたりしながら、山上の説教に聴き入っていたのですが、話し終ってガリラヤ湖に向かう坂道を降りて行かれると、大勢の群衆も後に続いたのです。多くの人はイエスの説教に深く感銘を受け、語られた言葉を心に反芻しながら、イエスの後に続いて坂を下りて来たでしょう。

  私はこの何週間か、皆さんは意外に思われるでしょうが、「ブッダのことば」という本を読んでいます。これは仏教の観無量寿経だとか法華経だとかという、いわゆる経典ではありませんが、最も古いブッダの言葉と言われ、スッパニパータと呼ばれています。恐らく日本人の必読の書です。仏教組織でゆがめられない――これでさえ、もう後世のかなりの手が加えられていますが――人間ブッダの素顔がかなり分かります。私は祈りの中で聖書を深く味わい、暫らくしてスッパニパータを読み、また聖書に戻ったりしています。この頃はそういう事をしています。

  すると、イエスの説教がいかに格調高く、希望にあふれ、愛に満ち、素晴らしいものであるか。人類の新しい夜明けを告げるものであるか、一段と理解できます。こんな風にしてお読みになると本当にそう思いますよ。群衆がイエスの後に従った時、まだまだ聞き足りない、もっと聞きたい、更に深く教えて頂きたいという思いで、イエスの後からついて行ったに違いありません。

    (つづく)

                                         2018年3月11日




                                         板橋大山教会  上垣勝



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