一本のローソク


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                                                故郷を慕う (下)
                                         詩編90篇1-12節
                                         ヘブライ11章13-16節


                               (3)
  7節以下に、「あなたの怒りにわたしたちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。 あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます」とありました。

  「あなたの怒り」は激怒を指します。「恐れます」は、恐怖や狼狽の意味です。また「わたしたちの罪を御前に置き」は、罪を書きとめて記憶することです。昔、中学の先生の閻魔帳に書き留められるのは恐怖でした。「隠れた罪を御顔の光の中に置く」とは、隠れたシークレットな罪も明るみに出されることです。神のみ前ではことごとく裸です。暴露されると言ってもいいでしょう。「恐れます」とあるのは、神の激怒への恐れです。激怒と怖れはいささかも加減されません。

  だが、「隠れた罪を御顔の光の中に置く」という言葉は、もう一つの意味があります。それはキリストによる罪の赦しの光の中に置かれることです。この赦しはモーセはまだ知りません。彼の千数百年後、キリストの十字架において起ることです。自分一人だけしか知らない罪や自分も避けて目を向けないようにしている罪、目を向けると顔が真っ赤になるような罪を持つ私たち。こんな罪深い者をも、救いの光で包んで下さることが暗示されています。キリストにあって、「隠れた罪を御顔の光の中に置く」とは、何と有り難い感謝なことでしょう。

  罪をことごとく、「み顔の光の中に置かれる」のです。暴き出して赦さぬというのでなく、み顔の光の中に置くことにより、憐れみで包んで下さるのです。「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせる」とある程、罪多く危うい私たちですが、救って包んで下さるという事です。

  繰り返しますが、「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせる」のです。罪への裁きは確実です。悪事をなして罪が神に記憶される時、いかに地上で栄えても、生涯は神の怒りによって消え去り、人生は息のように消滅します。モーセはその事を恐れて歌います。だがキリストの光の中に置かれる時、事情は打って変わります。息のように消滅する筈の私たちが、「み顔の光の中に置いて」憐れんで下さる。これは、ただ神の憐れみ以外ではなくもったいない限りです。

  10節以下に、「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう」とあります。

  人生は70年、80年、教会には109才のお母さんを持つ方がおられますが、普通は長くても100年程です。過ぎればあっけないものです。人生には心配と不安と悩み、もめ事、心労、混乱などが向かう先々であります。人生は楽しかったと言う人が居ても一瞬のうちに飛び去ります。思い出されるのは楽しかった事もありますが、労苦と憂いがいかに多かったかです。気がかりで死に切れない人もあります。

  また、神の恵みを知れば知るほど罪の深さが思われ、神の憤りの大きさを知る事になりますが、その罪がキリストの十字架の贖いと引き換えに赦されるのを思って、恵みの大いさを思わざるを得ないのです。

  だからこそ12節で、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」語られます。私を知恵ある人に、1日1日を大切にする人、一寸の光陰軽んずべからず、命を授けられている大切さをよくよく受け留め、神を知る、賢明な人にさせて下さいと切に祈るのです。生きるにしろ死ぬにしろ、神の手の中に宿る存在だから、生涯の日を正しく数える賢明な者にして下さいと、神の人モーセは祈ったのです。

  人生を隣人への愛の心を持って自覚的に生きるように、私の目を開いてください。神のみ旨に沿って生き、1日1日、神のご意志を少しでも反映し、御心が天になるごとく地でも行なわれるように祈り、生涯を正しく用いさせて下さい。自己満足の日々でなく、神の御心に沿った日々の生き方をしたいということです。

  ローソクが短くなり、消えそうになる時、その一切が世の一隅を照らすものであった事が分かるように、私たちも一本のローソクのように生きたいと思います。

  大塩清之助先生は、日毎に神の前に出た方だったと思います。先生の本当の姿を知らない人は、造反牧師とか、社会派の暴力牧師とか言ってレッテルを張りましたが、人を愛し祈ることにおいて人後に落ちない人でした。神が与えられご自分の守備範囲と思う人々を、神から預かった人としてルーズリーフ・ノート1ページ毎に名前を記して、その人が時々語った意味深い言葉を書き留め、その全員のために、日々祈っておられました。100人、いや、それ以上にいらっしゃったでしょう。私などはその足元にも及びません。愛なしにはその人のために祈れません。憎んでいては祈れません。大教会の牧師は一人一人の為にここまで祈ることができませんし、大てい端(はな)から致しません。先生が祈りの人だとはそういう意味です。

  先生はまた、聖書のみ言葉を日々頂いてその言葉に深く沈潜し、意味を思索し、それに支えられ、キリストの十字架と復活との関係を独自に考え抜いて生きられました。「汲めども尽きぬ命の水」を、キリストから汲んでおられました。その説くところは晩年まで新鮮でした。先生は地上の故郷でなく、天の故郷を仰ぎ見ておられたのでしょう。

  ヘブライ書は語っていました。「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。」私たちも、神と共にある人生を歩きたいと思います。



            (完)

                                         2018年2月25日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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