職業で神に仕える


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                                          職業で神に仕える (中)
                                          出エジプト記1章11ー22節



                              (2)
  こんな背景の下で、イスラエルへの虐待が増し、15節以下の男児殺害命令と助産師たちの抵抗事件が起ります。「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラ、もう一人はプアといった。『お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。』」

  「子どもの性別を」とあります。これは英訳でははしたない言葉ですが、子どもの睾丸を見よ。金玉を見よ。それがあるなら殺し、なければ生かしておけとなっています。まるでひよ子の雄雌を見分けるような表現です。

  今、産婦人科学会で出生前検診の事で論議が広がっています。お母さんの血液採取で、胎児のDNA異常が判定できるそうで、異常がありダウン症その他の疑いがあれば、中絶してよいという事にしようとしていています。だがこれには様々な問題が含まれます。

  睾丸のあるなしでなく、DNA判定で殺したり、生かしたり、法律で決める。人間とは一体何でしょう。人類の進化でしょうか、退化でしょうか。殺人でしょうか、救済でしょうか。科学の進歩と共に悩ましい問題が起ります。

  「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。」

  これは凄い決断です。彼らは神を畏れる婦人でした。神を畏れる。神を畏れる魂は、時に何と凄い事を歴史の中でするかと思います。彼らは神に聞くより、ファラオに聞く方がいいとは思わなかった。ファラオが何と思おうが、たとえ何を為そうが、神に聞く方が正しい事だと考えたのです。ここに永遠の真理があると考えた。

  先週の講壇交換後、4時から水道橋であった「信教の自由を守る日」の集会に行きました。パネル・トークというのがあって、2人のパネラーとコーディネーターの話を聞きました。1人のパネラーは、母子支援施設で働く若いキリスト者で、20代の普通の女性でした。彼女は、教会は祈りの場でないかというコーディネーターの発言を受けて、祈りの場であると共に、社会教育の場だと思うと話していました。

  今の日本の学生の多くは、卒業後の就職や金儲けのことばかり考えていると言われますが(卒業すれば奨学金返済を返さねばならないというい重石があるので分かります)、彼女は大学を出た後、どうしてそんな仕事をするようになったかと聞かれて、学生時代から日本での難民支援やホームレス支援、また世界の貧困問題への関心を深めて行ったそうです。そこに、教会だけでないが、教会でこれらの社会問題が普通に取り上げられる。それが自分に影響したと発言していました。

  学生たちの周りにはそういう世の中の問題を考える機会が殆どない。そういうことを語ると、「あなたはマジメね」とか、「あなたは変わっているよ」と言って仲間から切られたりするようです。しかし教会では自由に話せる。即ち、教会は神に向かう場であると共に、社会で起こっている現実問題を考える社会教育の場だということです。私たちの力ではどうにもならない問題が多いが、祈ることができ、また何が出来るかを考える場であったので、自分はこういう職場に進んだということでした。ここから考えて、若者が教会に身を置く事は大変大事なことだと思いました。

  私が言おうとしている事は、教会というのは、この助産婦たちのように神を本当に畏れる場だということ。神を畏れる故に、現実問題を真剣に考えるという事。その場合、この世の価値観とはやや違った判断をクリスチャンはする場合があること。また、それでいいということです。シフラとプアはそういう判断をしたのです。

  彼女たちは、この世の損得で考えなかったのです。経済や金儲けで判断しなかった。新約聖書の言葉で言えば、「私たちの国籍は天にある」と考えたので、ファラオの命令より神に従う方が正しいと考えたのです。

  だがそれを知ったファラオは2人を呼びつけ、「どうしてこんなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか」と厳しく問い糾(ただ)したのです。権力者から尋問されてさぞ恐ろしかったでしょう。だが彼らは、「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」と答えました。何と機知に富み、したたかな答えでしょう。彼女たちは神を拝する、神の前に自立した女性たちです。非暴力的に抵抗したのです。彼らがしたたかに抵抗したことがどんなに同胞らを勇気づけたでしょう。彼らが自分の職業を通して、人の言葉に左右されず、主体的に生きた。それが同胞たちを励ましたのです。

  出る釘になることは中々できません。しかし誰かが出る釘にならないと、社会は何も動きません。彼女たちはいわばエジプト社会では宙に浮いた事をしたのです。それが多くの人を励ました。人は誰が何をするかを見ています。そして誰かがする時、心ある賛同者たちが声をあげます。

  先程の集会で葉書を貰いました。それは「安倍ヤスクニ参拝違憲訴訟」という高裁の裁判長宛ての葉書で、通信欄がありました。今、高裁判決が出されようとしていて、全国から裁判長宛ての葉書を書く運動があるのです。私はこう書いて投函しました。「日本の民主主義を前進させる裁判長になられますか。後退させる裁判長になられますか。後退させない、歯止めの裁判長として名を残して下さい。注視しています。」私たちはこんなことしかできませんが、しようと思えば、こんな事が出来るのです。

  今から3200年前の2人の助産婦さんから、自分の信仰を恥じてはならない事、自分の主体性を掴まなければならない事を学びました。

  私たちはお上(かみ)に自由にものを言う習慣がありません。遠慮します。目立っちゃいけないと後にさがります。言うべき時なのに口をつぐみます。だが、「私たちの国籍は天に在り」。私たちの国籍は天にあるから、世と違った考えで判断し、決断出来る。2人の助産婦は、「私たちの国籍は天に在り」と考え、決断したのです。

  パウロはロマ書1章で、「わたしは福音を恥じない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ」と語りました。私は福音を恥じない。キリストを恥じない。恥じては何もできません。屁の突っ張りにもならない信仰。2人の助産婦はそういう信仰でなく、神を畏れるゆえに自分の職業で神の栄光を表わしたのです。彼らにとって信仰はただの気休めではなかったのです。


     (つづく)

                                         2018年2月18日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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