親切にできる喜び


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                                             イエスの使命 (中)
                                             ルカ4章16‐22節



                               (2)
  イエスは先ず、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために…」と朗読されました。

  イエスが洗礼をお受けになった時に、天から鳩のように聖霊が降りました。その後、聖霊によって荒れ野を引き回され、悪魔の誘惑に次々勝利して、神の「“霊”の力に満ちて」ガリラヤに帰って来られたことが4章17節までに書かれています。まさにイエスの上に「主の霊がおられる」のです。

  「おられる」とあるように、この霊は無味乾燥、無人格なお方でなく、一人のれっきとした人格である方がイエスの上におられるという事です。この方は、天地宇宙万物を造り、それを永遠から永遠に渡って統べ治める主なる神と同格であるご人格です。そのお方が、イエスの上におられるとイザヤは預言したが、今ここにそれが成就したと言われたのです。

  何のために主の霊がイエスの上におられるのか。「貧しい人に福音を告げ知らせるため」です。イエスに主の霊が降り、霊に満ちて帰って来たのは、このためです。「主がわたしに油を注がれた」とは、聖霊が豊かに注がれた事を指します。

  旧約では祭司や預言者、また王の即位に油が注がれましたが、イエス聖霊を注がれ、神から油を注がれたという自覚を持たれたのでしょう。これはイエスのメシア意識といいますが、この時、人類の救済者として活動する思いが力強く芽生えたに違いありません。

  主の霊とは、神の聖霊以外ではありません。それは真理の霊、平和の霊、恵みの霊、幸いの霊、和解の霊、赦しの霊、癒しの霊、愛の霊、交わりの霊、謙遜の霊、造り主の霊、御子の霊、慎みの霊、公平と正義の霊などを含む霊です。イエスの上に、神のこのスピリットがおられて、このスピリットによって動かされ、活動するという自覚を得られたのでしょう。

  「貧しい人に福音を告げ知らせるため」とありました。この貧しい人とは、悩む人や苦しむ人、困窮する人、時には乞食を指す言葉です。ただ、貧しい人とは、この後で言われる囚われ人や目の見えない人、圧迫されている人など、社会的・宗教的・経済的に虐げられ、一般社会から排除されていた人たち総称だと語る人もあります。

  即ち、イエスの伝道は貧しい人や試練を受けている人、悩む人や困窮する人たちに福音を告げ知らせる為に、神に油を注がれたということです。言い換えれば、金銭的経済的な貧しさの中にある人たちと共に、霊的な貧しさ、心の貧しさ、淋しさや孤独を覚えている人たちに、神の国の喜びの訪れを告げることを、第1の使命とされたのです。

  「油を注がれた」とは、神に聖別された事、神の御用に取って置かれる者となることを指します。イエスはそのために洗礼において天から霊を豊かに注がれたのであり、荒れ野を霊に引き回され、悪魔に勝利して霊の力に満ちて帰られたのであって、自分の栄誉の為とか、自分の名誉のためではありません。また富む者でなく、貧しい者のために、神の使命を果たすように油を注がれたのです。

  「捕らわれている人」とあるのは、捕虜を指す場合もありますが、捕虜でも色々な捕虜がある訳で、そこには律法や規則の捕虜にされた人、病気や悪霊に囚われ、お金やマモンに囚われ、憎しみや嫉妬に囚われ、自分や人に囚われている人など。彼らに、囚われからの解放の福音、自由の福音を告げ知らせる為に遣わされたというのです。「福音を告げ知らせるため」です。喜びの訪れを知らせるためです。即ち、「主の恵みの年を告げるためである」とあります。

  イエスの使命はまた、「目の見えない人に視力の回復を告げる」ことであるとありました。古代には眼病が多く、目が見えず本当に苦労する人が多くいました。イエスはその人たちと出会い、悩みを聞く中で、目が見えないことは何が辛く、何が大変かを知られたのでしょう。

  月末に学ぶことになっているので、ヘレン・ケラーの事をこのところ申しますが、彼女は目が見えず、耳が聞こえず、話せないという3重苦の中で、目が見えないことの苦労を書いています。盲人の一番の苦しい事は生活のどんな些細な事柄でも万事他人の世話にならなければ出来ないということだと語り、「私たちは人の世話になるのでなく、心から強い、自由な、人の世話をしうる人間になりたいと願っているのです」と言っていますが、世話になることが多い故に一層本当にそうだろうと思いました。また、盲人は甘やかされたいと思いません。甘やかされる事は、盲人にとって一番不必要なことですとも言っています。

  親切にされるのは誰しも歓迎です。それは快い事です。だが世話にならねばならない。これは盲人だけでなく、誰でも辛いです。むしろ人の世話が出来る。それが願いだと語るのは本当にそうだろうなと思いました。

  それと共に、五体満足で人に親切にしようと思えば出来るが、少しも進んで親切にしない人の問題も同時に考えさせられました。他者と共に親切に生きようとしない人の問題性です。本当は、人に親切にお世話が出来る喜び以上の喜びはないと思います。

  またそれと共に、イギリスの優れた信仰の詩人で、人生半ばに失明したミルトンが、「盲目であるという事が不幸なのではない。盲目に耐え得ないとい事が不幸なのだ」と言っていることも考えさせられました。盲目だけでなく、盲目という十字架が耐え得ない、いや、耐えようとしない心が不幸だという指摘です。これは前に申し上げた、ベートーベンの「不幸を用いて歓喜を鍛え出した」という生き方の逆です。不幸になってそれに耐え得ず、自ら悲観を生み出してしまうあり方です。

  ローマの信徒への手紙5章は、「キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします」と書き、「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」と書いていますが、ミルトンやベートーベンはこうして苦難を喜びへと変えていったのです。


       (つづく)

                                         2018年2月4日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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