道標がちゃんとありました


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                                           繁栄の方法Ⅱ (下)
                                           ルカ4章1-8節



      (前回から続く)

  するとイエスは、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とお答えになりました。

  ただ神である主を拝み、ただ主にのみ仕えよ。それが私の行く道だ。また人としてまっとうに生きる道である。いかに繁栄や権力を手に入れる機会があっても、自分は悪魔を拝むことはしない。悪魔の差し出す繁栄と権力の道を振り払われたのです。

  第1の誘惑の時にも申しましたが、これも、イエスの人類に対する掛け替えのない愛のメッセージだと思います。ここに人類が人類らしく生きる道があり、人類が歩むべき目印、道標があります。人類が真に繁栄する道は、悪魔を拝んで繁栄を追求する道、あるいはそれに類似する道にあるのでなく、それは滅びへの道であり、ただ神である主を拝み、ただ主にのみ仕える所に人類が永続して繁栄する道があるのです。

  日本人に一番欠けているのは、先程触れました神との縦の関係です。人間同士の縦関係ではありません。タテ社会のことを言っているのではありません。絶対者との縦の関係を、天皇を神にしたタテ社会に移し替えてもダメです。それを私たちは戦前にして、国民に押し付けて多くの日本人を苦しめました。天皇はむろん神でも何でもなく普通の人です。今、天皇家が孫の事で大変な目に遭ってお気の毒ですが、天皇家も「畏れ多くも」というような家系でなく、それは私たち庶民と全く同じだからです。今申し上げたいのは、日本には真の神との関係という絶対的尺度がありません。真に拠り所となる尺度は主なる神、まことの神以外にありません。このお方との関係による生き方、倫理が正しい生き方や豊かな文化を生むのです。「ただ主にのみ仕えよ」とは、そういうことです。

  去年の旅で、テゼの後、イギリスの湖水地方に着いた翌朝、ピーター・ラビットの絵本を書いたベアトリックス・ポターの歩いた野の散歩道をホテルのご主人に教えられて、歩いて来ました。湖を左の眼下に眺みながら羊が放牧されている牧場に柵を乗り越えて横切り、向こうは寛容のお国柄で、あちこち牧場の中に入れるパブリック・パスという細い野の道があります。人家が途絶えた淋しい丘を越え、水鳥たちが泳ぐ、静かに水を湛えた別の小さな湖水を巡って、また別の牧場の車道を巡って、小村を抜けて帰る1時間程度の素晴らしいウオーキング・コースでした。

  ところが、人家が途絶えた最初の丘で道を失ったのです。進むべき道も聞いていた道路標識も見えないのです。その日はどんより曇る小雨のけぶる寒い日で、これ以上進めば道に迷ってしまうと思って残念ながら引き返しました。強行してイギリスで遭難すれば新聞に載ったでしょうね。

  ホテルに帰って背丈が2mほどあるご主人に聞きました。すると丘の所で右に曲がる目印があるというのです。でも私は幾ら探してもなかったと聞きませんでした。いやある、いやない。そんな会話が続いて、1m程の棒にサインがあると言ったのです。そんな棒は見なかったと私は言いました。

  結論を言えば、私は日本の山の道路標識を考えていたのです。翌朝、折角湖水地方まで来て悔しいので、時間がないのに再挑戦しました。そしてその丘に来て探しましたら、何と一本の低い棒杭です。そこに5cm程のナショナル・トラストというラベルが貼られていて、矢印があるのです。私の固定観念で道路標識を考えていたので、目印が全く目に入らなかったのです。彼らは自然の姿を大事にするので、デカデカした標識を立てないのです。周囲に馴染んだ標識を慎ましくそっと立てる。それからはスイスイ進んで素晴らしいイギリスの自然を独り満喫して、無事朝食前に帰って来ました。ポターがほぼ毎日歩いていたというコースのようです。

  人類が歩むべき目印が、人類が人類らしく生きる道がここに記されているのです。ところがそれが先入観や欲のために目に入らないで、別の道を行くというのではいけないのです。

  「あなたの神である主を拝み、ただ主にのみ仕えよ。」、「人はパンだけで生きるものではない。」神のみを神とする。ここに人類の食の問題、隣人愛の問題、経済の問題、そして国際社会がどうあるべきかの問題や文化の問題、そして1人の個人がどう生きるかを解くカギがあるのです。イエスはご自分が悪魔に誘惑される中で、人類がどう進むべきかの道標を示されたのです。

  道路標識とはこうだという固定観念では、私のようにその標識は見えないかも知れません。しかしイエスの語ること、為されたことを色眼鏡なしに洞察して行くなら、あるいは自分の考えが砕かれて行くなら、必ず人類が、そして自分が進むべき道標を発見するでしょう。今日でクリスマスの飾りつけが終わり、暫らくして受難節を迎えますが、馬小屋の飼葉桶に生まれられたお方は、そういう方向を告げられたのです。

  先週、牧師たちの研修会を開きました。そこで今回大変学んだのは、人の弱さということです。牧師の限界というか、牧師は人を救えるという考え違いです。人を救わなければ本当の牧師ではないという強迫観念です。そうではありません。救うのはイエス様です。ですから、あなたのような生き方では救われませんと正直に語ることが必要になる場合もあります。イエスにおいて、そういう自由を与えられています。イエスは富める青年にそれを語られましたし、ファリサイ人たちにもそう語られました。

  「神のみを拝み、ただ主にのみ仕えよ。」この神との垂直関係が緩んで来ると、横の関係が幅を利かせます。そして横の関係が本人にも気づかない形でおかしくなります。はじき飛ばされるのを恐れて、媚びたり、調子を合わせたり。それが教会に起れば、そんな所は教会ではありません。この世です。この世よりも酷い所になりかねません。共依存関係のような腐ったものが起ります。

  信徒は牧師を祀り上げてはならないのです。イエスのみが救い主です。イエスだけが真の牧者であり、牧師は永遠に副牧師に過ぎません。この自己認識を今回の研修で深めました。

                              (3)
  最後に、悪魔という言葉はギリシャ語でディアボロスと言います。これは、中傷者、誹謗する者、そしる者、悪意を持って訴える者、神と人を惹き裂く者、神の事を人に人の事を神に告訴して人と神とを仲違いさせる者。あの人の所ではああ言い、この人の所ではこう言って仲を裂く者などの意味があります。

  悪魔はいるでしょうか。聖書的にはそれは存在しない実在です。存在しないのですが実在するのです。矛盾するような言葉ですが、無である実在です。それは人間の幻影であり、人の欲が作りだしたもの以外ではありません。人の欲を掻き立てる何ものかです。

  しかし、そういう人の欲望を掻き立てるものがいつの時代にも存在しているとすれば、やはり悪魔は存在しているのかも知れません。だが悪魔の存在などどうでもいいのです。私たちは神のみを拝し、主のみ言葉を糧とし、主のみを拝み、仕えて行こうではありませんか。そこに人類と私たちが進むべき道標があります。


         (完)

                                         2018年1月28日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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