魂を殺せるか


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                                           人も死も恐れるな (下)
                                           マタイ10章26―31節



                               (2)
  そして、今日の中心に入ります。「 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」先週のAさんの前夜式でこの聖書を取り上げましたので、少しダブる所があるかも知れません。

  それにしても、イエスのこの言葉は何と逞しい言葉でしょうか。「体は殺しても」とは、処刑されることです。「魂」とあるのは、プシュケーと言うギリシャ語ですが、これは人格の中心部分、あの人は見掛けによらず「芯が強い」と言いますが、プシュケーは人格の芯であり、自我の芯の部分です。あるいは、人を人たらしめるもの、心の密室において神と向き合う主体。我と汝の人格関係を成立させるものと言っていいでしょう。

  ですから、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」とは、肉体的、精神的な暴力を受けても、人格の最も奥にある我そのものは、心の密室にある魂は、誰も傷つけ得ない。人も死も恐れるな。キリストを信じる時、その人格や魂を殺すことは決して出来ないということです。

  志賀直哉の素晴らしい小説をお読みになったことがおありでしょうか。彼の描写は見事で、特に子どもの描写が巧みです。過剰にならず、少なくもなく、引き締まった文体で人物や情景を巧みに描いています。小説の神様と言われるのも納得できます。

  志賀直哉キリスト教の影響を受けた作家ですが、その小説を読んで、彼は魂を見つめつつ描く作家だと私は思いました。主人公の、例えば下級侍の中にも、田舎者の女中の中にも、少年の中にも、丁稚小僧の中にも、この確かな魂を掘り当てて描いているから、私たちは感動するのでしょう。

  一人一人、屈せぬ魂を持ち、上の者に対しても屈しない。一時はむろん負けます。引っ込みます。だが負けたに見えて、負けぬ魂です。それがジワッとこちらに伝わって来て、そういう魂を描くゆえに、私たちの魂を打つのでしょう。いわゆる心の琴線に触れてくるのは、主人公のこの魂に触れるからでしょう。

  イエスは、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言った後、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われたのです。これは非常に示唆深く、魂の重みをズシリと感じさせる言葉です。イエスは私たちの魂を鍛えて下さるのです。

  ただ日常生活を振り返ると、たとえ家族と言えど、個人の魂に触れることは甚だ難しいものです。いや、家族だからこそ魂の密室に触れられないのかも知れません。日常の私たちは、相手の魂に向き合っているかと言うと、ほぼ表面的に流れているからです。魂の密室というのは、神のみが触れて下さる領域で、他の何者も立ち入り難い、はっきり言えば立ち入れない場所です。志賀直哉はそういう何者も立ち入り難い魂の尊厳を書こうとしたのでないかと思います。

  今年度は6月にDさんが心筋梗塞で急逝されて以来、11月にEさんも急に天に召され、大晦日にはFさんが逝ってしまわれ、この13日にはGさんまで御許に召されました。この方々も一人一人、魂の密室でキリストに触れ、キリストが触れて愛して下さっていた大切な方でした。この方々においても、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れよ」というイエスの言葉はあてはまったでしょう。

  今申し上げているように、魂、そこは人間存在の最も深い、神聖な、犯すべからざる芯の部分です。そこは他の者は誰も入れない、家族も入れない、魂の密室で神が出会って下さったから、その方があったのです。魂を鍛えて下さる神の介入がなければ、私たちが知る彼らはなかったのです。ですから、これらの方は掛け替えのない方で、誰も代わりは出来ません。

  Gさんの葬儀で申しましたが、幕末の横浜で奥野昌綱は宣教師のバラに出会います。当時武士中の武士と言われ、仏教諸派に通じ、和漢両学にも精通していた凄い人ですが、彼が密かに信仰を持ちます。これは非常に大きな出来事です。キリシタン禁制の時代で、キリスト者になれば打ち首だったからです。だが奥野昌綱は、「彼らは私の首を打ち落とすことが出来ても、私の魂を打ち落とすことは出来ない」と語って洗礼を受けます。まさに彼も心の密室でイエスと出会い、その魂が鍛えられたからです。

  今は斬首されるような荒っぽい事はありませんが、それでも何かと色々な悩みと試練がありますから、この言葉は深い所で今も真実です。だから、「彼らは私の首を打ち落とせても、私の魂を打ち落とせない」という信仰を、私たちも持ちたいと思います。

  最後に、イエスは雀の譬えを語られました。まるでサラっと描いた一筆書きのような譬えです。2羽の雀が1アサリオン、小銭で売られているではないか。当時、道端で売られているのをご覧になったのでしょう。だが、その1羽さえ、あなた方の父のお許しがなければ、地に落ちることがない。当時、雀は最も安い食品で、誰も気に留めない生き物です。

  神への絶対的信頼を持ち、委ねて生きよ。すべては明らかにされる。人はいかに隠せても、隠しおおせない。ごまかせない。あなた方の心の密室で信じた信仰はやがて明らかにされる。「思い煩いは、何もかも神にお任せなさい。神があなた方の事を心に掛けていて下さるからである」とある通りです。

  雀1羽さえ心に掛けていて下さるとは、何という確かさ。有り難さでしょう。1羽の雀のことも覚えられ、大能のみ力を持って治められる主なる神に思いを集めなさいと言われるのです。いかなる人の力も、あなたの魂を支配できないと言われるのです。ここに信仰の自由が生まれる源、根っ子があります。

  小さい事に心悩ませず、万物の本源であり、根源であり、生命現象の根幹であるお方を覚えて安んじて生きよと言うことです。

  もう一度、26節以下をお読みましょう。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。… 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。…恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」


        (完)


                                         2018年1月21日





                                         板橋大山教会  上垣勝



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