隠しても明るみに出ます


    マンチェスター空港近くのこのフラットの一軒が、危うく路上生活になりそうになった例のAir B & B。
         Air B & Bにはくれぐれもご用心。
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                                           人も死も恐れるな (上)
                                           マタイ10章26―31節



                               (1)
  今年度は特別な年になりました。6月以来、先週で4人目、92才のOさんが「これで撃ち留め」と葬儀が終わって言われた程で、本当にそう思います。礼拝が急に淋しくなりました。また、今日は2人の方が、身内のご不幸で礼拝に来れません。教会も社会も超高齢化を迎えています。

  さて、私たちは何を恐れ、何を恐れるべきでないのでしょう。信仰者であろうと、信仰を持たぬ人であろうと、イエスの今日の言葉は、全ての人間に言われている言葉です。愛するが故に、失われてはならぬ故に、その方が貴い存在である故に、イエスは、「人々を恐れてはならない」、怯えてはならないと人類全てに語られたのです。

  恐れると委縮しますが、それと共に必要以上に強く出たり、猛々しくなり勝ちです。窮鼠猫をかむと申しますが、北朝鮮の総書記を思っても、そんな思いを強くします。また、人を恐れると罠に陥ると旧約の箴言は語ります。どんな罠か分かりませんが、思い掛けない罠が待っているかも知れません。

  人を恐れるのは、恐れる自分を恐れているからでもあるでしょう。自分の姿が明らかにされるのを恐れるのです。いずれにせよ、イエスは「人々を恐れてはならない」と、私たちが自由で、伸び伸び、健やかな人として生きるように話されたのです。

  次に、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」と言われました。今はヴェールで覆われても、やがて正体が現わされ暴露される。必ず覆いが取られ、明らかにされると言われるのです。

  どんなに隠しても大抵、時の経過と社会変動の中で、明らかにされるものです。また、神の目からすれば、誰しも皆、裸です。秘密は永久に秘密ではない。安心していいのです。地上で明らかにならなくても、神が最終的に一切をお裁き下さるからです。神が明らかにされるから、偽る必要はなく、恐れず、公明正大に生きよ。多少、時間がかかるかも知れません。だが、事実を事実として恐れず生きよと言われるのです。事実以上に強いものはありません。

  目が見えず、耳が聞こえず、話せない。1才半で突然発熱し、3重苦になったヘレン・ケラーを2月に学ぼうという事ですが、私が大変驚くのは、彼女が12才で誤解を受けて死ぬほど苦しんだことです。盲学校の尊敬する校長先生に誕生日プレゼントとして「霜の王様」と言う短い作品を送って、それが学校の雑誌に掲載され、喜びの絶頂に置かれたのです。だが、暫らくしてそれが盗作だと吹聴され、幼い12才で血が凍るほどの苦しみを味わうのです。その呻吟する姿を読むと心痛みます。それ以来、「自分の書くものが自分自身のものでないかも知れないという普段の恐怖に悩まされ続けた」と言います。

  12才で、三重苦の上にそんな事まで気を遣わなければならないなんて、実に恐ろしいことです。だが、やがてその原因が何であったか解明されます。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」のです。正しいのに誤解を受けて苦しんでいる大人も、12才の少女ヘレン・ケラーの経験を知ると励まされるでしょう。

  イエスがここで言われるのは、「神のみを敬う事が、人を自由にしうる」ということでしょう。神のみを敬う時、次から次へと起る、世の誤解や恐れからも、私たちを自由にするのです。

  次に、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」と言われました。

  「暗闇で言う 事」とは、密かに心の密室で語られることです。あるいや、祈りの密室で聞くことです。それを明るみで言えと言われるのです。「耳打ちされたこと」も同じ意味ですが、こちらは、より個人的に密かに語られたことです。個人的に発見したことでもあるでしょう。それを「屋根の上で言い広めよ」と言われたのです。これは比喩です。個人的に、神から耳打ちされた事、また真理があなたに語る事。それを屋根の上で、公けに、勇気を持って、大胆に語れという意味です。

  キリスト者と言うのは、科学者の態度に近いものがあります。事実を事実として語らしめる。データをして語らしめる。データを改竄(かいざん)してはならぬのはもちろんの事、先入観で、自分の主張に合わせてデータを取捨選択してはならない。今、データの改竄が時々話題に上がりますが、自然が語ることに謙虚であれ、真実であれということに通じるのが、イエスの言葉です。極めて大事です。

        (つづく)


                                         2018年1月21日





                                         板橋大山教会  上垣勝



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