Aさんの葬儀


        湖水地方の忘れ難い思い出を胸にフィンランド航空でマンチェスターを飛び立ちました
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                           A・Bさんの葬儀



                                  Ⅰテサロニケ5章16-19節
                                  2018年1月16日(火)午前12時半
                                  於 板橋大山教会

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  A・Bさんは1929年(S4年)12月18日に長崎県時津町でお生れになり、この13日の朝、88才で主の許に召されました。元は長崎の名主のご家庭の出であったとお聞きしたことがあります。

  Aさんは大山教会で、12年前に洗礼を受けられましたが、一番お好きな聖書の言葉は、先程の第Ⅰテサロニケの、「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という言葉と、ヨハネ福音書の、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と語られたイエス様の言葉 でした。

  Aさんは小難しい方ではありません。心の柔らかい、素直な方でしたから、神が最も望んでおられる事は、「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という事だと知ると、素直にその事に心を向け、出来るだけそこから逸れずに歩もうとされました。

  A・Bさんは祈りの人でした。と言っても、難しいキリスト教用語を操り、格調高く、心揺すぶられる祈りを皆の前でする人という意味で祈りの人ではありません。また、いつも、祈り祈りと言って、口を開けば祈りが口癖の人でもなく、「私はうまく祈れませんもの」と、しばしば言われましたが、祈りの人でした。

  76才でこの教会につながり、翌年、武蔵嵐山国立女性教育会館で開いた教会の1泊2日の秋の集会で、私は、世界中から若者が集まるフランスのテゼ共同体という所から学んでいることをお話しました。単純で、質素な生活の中に、信仰と祈りに生きる「テゼ共同体とブラザー・ロジェさん」という題で3度にわたって話させて頂きました。その中で、A・Bさんは教会のお祈りの会に初めて出席した時、人前で祈るのが初めてで、緊張のあまり頭の中が真っ白になって、たどたどしい言葉で祈って逃げ出したい思いをしたが、ロジェさんは、「単純にキリストのそばに留まること。それは既に祈りです」と語っていると聞いて、心が熱くなったと言われたのです。この事があって、自分のような者でも、「単純にキリストのそばに留まること」、それでも、神は心の祈りを聞いてくださることを知らされて励まされたと、ある所に書かれました。

  Aさんは、キリスト教信仰の精髄を信仰に入って間もなく掴まれたのです。信仰は難解なものでなく、世界の若者も惹きつける、単純に神との心の交わりである。心の一番深い所で命の源であるお方と出会って、この方に話しかけ、この方が聖書を通して語ってくださることを、心を平らにしてお聞きすること。それを実際に素直に行なって、神の前に出て神と交わることだと悟られたのです。だからしばしば、神の前で静まる時を持っておられたのです。若者も大人もどうすべきか、しばしば独り迷います。右に行くべきか、左に行くべきか、何をすべきか、神に聞くためです。

  単純な神への信頼です。疑わずそれをする事です。それがAさんを変えていったと思います。変わろうと力んで自分を変えたのでなく、神様がAさんを変えたのでしょう。

  帰国して10年間程、テゼの歌を使って集まりをここでして来ました。プロテスタントの色々な教派の方、カトリックの方、無宗教の方も、東京、千葉、埼玉、神奈川、長野辺りからも来る方があって、小さなエキュメニカル・超教派の集まりです。30代、40代が中心でしたが、そこにAさんも好んで出られました。大変スピリチュアルな集いで、今思うと、Aさんはスピリチュアルな方だったと思います。

  昨夜申しましたように、Aさんは心の密室で、キリストと、神と出会っておられたのです。だから、不思議にお強よかったのだと思います。自分の心の内面の一番深い所で命の根源である神に出会う。これ以上に大きな力になるものはなく、喜びはありません。心の密室は誰も他の人は入れない所ですが、またそこはしばしば自分自身も自覚しない場所です。だがキリストはそこに入って来て、慰め、励まし、誰もしてくれない罪を赦し、同時に頑なな心を砕きもして、新しくして下さるのです。簡単に言えば、諸々の恐れから助け出し、健やかな人に造り変えて下さる。そういう温かいスピリチュアル、温かな霊性を信仰において授けられたと思います。

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  先程、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」という言葉をお読みしましたが、このイエスの言葉がAさんの心に届き、それを心の密室でお聞きになったのです。神の愛の選びです。これは信仰に入って随分早い時期に、言っておられたことです。自分がイエスを選んだのでなく、イエスがこんな私をお選びくださった。それが有り難いですとおっしゃっていました。

  この事は、お元気な頃、と言っても78才頃からですが、説教を録音するためにレコーダーを買って来て録音された事にも現われました。お家でもみ言葉に接し、説教を聞きたいからと録音されました。「心の貧しい人々は,いかに幸いなことか」とイエスは言われましたが、心の清い貧しさを持っておられました。

  Aさんが神を選ぶ前に、神がAさんを選んで下さっていたということが確信になり、喜びを与えたでしょう。それによって、先程の「いつも喜んでいなさい」という所に導かれたのは当然でしたし、「どんな事にも感謝しなさい」という所にも導かれました。

  1週間前に教会の礼拝で申しましたが、Aさんは感謝の人でした。暮れの30日に、入院中のAさんをお訪ねしました。その時はまだ骨折の痛みはありますが、随分回復し、リハビリを始めておられました。暫くお話して帰りましたが、お元気な時とほぼ同じように顔を輝かせて、「感謝なことですね。私のような者にこんなに良くして頂いて、イエス様がお守り下さっていることを感謝します」など、何遍も心から感謝という言葉を出して話されました。東大病院でもそうでしたが、私は改めて、この方は感謝の人だと思いました。

  入院しつつ感謝に溢れている。今後歩けるかどうかも分からないのに。あの病院で感謝に溢れている人は他にいないと思いましたよ。グチや不安で溢れているのではない。疑いや心配で溢れたり、恐れで溢れていない。ましてや人をこき下ろしたり、悪口で溢れていない。感謝で溢れている。そこに私は精神の逞しさを見ました。しかもそれは真底(しんそこ)、心の密室でキリストに出会ってそこから湧きでる感謝です。

  キリストは、私たち一人一人、誰でも求める人たちに心の逞しさを与えて下さるのです。その逞しさは、先程から申し上げている、心の密室でキリストが出会って下さることから生まれるものです。

  恥骨も骨折している訳で、痛さや辛さ。文句が出て来る筈なのに出て来ない。30代、40代に大変なご苦労をされ、昨夜詳しく申し上げたあの難病になられたのです。数年前、その頃あったご苦労をもう少し聞きたいと、水を向けましたら、「もう思い出しません。思い出したくありません」とキッパリ言われました。神が今、与えて下さる恵みの方に目を向けておられる姿に接しました。今ある神の恵みに堅固に立っていらっしゃったのです。

  キリスト教の本質は自由さにありますが、感謝は思いがけない所にも出ました。去年の母の日にカーネーションを買っておられるので、道で会った家内がお聞きしましたら、娘さんにプレゼントなさるというのです。「エッ!」と思って、聞き返すと、「いつもお母さんをしてくれているので、ありがとうって、あげるの。」母親が子どもに、母の日のプレゼントをしたというのは前代未聞、これまでお聞きしたことがありません。Cさん、貰われましたか?やはり頂かれたんですね。母が子どもに、母の日に上げるカーネーションをあげて、「お母さん、ありがとう」って感謝する。何と自由な感謝でしょう。仕来たりに囚われず、自由に進んで行なうことは、最高の感謝です。

  思い出は尽きません。最後に、「Aさん、ありがとう。私たちの同じ時代に生きて下さって感謝します。」本当に有難うございました。




                                         板橋大山教会  上垣勝



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