祈りと逞しさ


                        10才のPietro Edoardo君      右端クリックで拡大
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                                            逞しい少年 (下)
                                            ルカ2章39-52節



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  暮れに嬉しいことがありました。毎年クリスマスの便りを海外で知り合った方々に送っていますが、このクリスマスは、孫のAの言葉の発達が少し遅く、言葉の語順が正しくなかったりして意味が分かりづらくて、学校の友達とのコミュニケーションに難があって友だちの中に中々入りづらい。学校でいじめのようなものもあると書きました。

  そしたら、10数年行き来があるイタリアの40代のご夫婦からメールが来て、「息子のPietro Edoardoが、A君の事で大変心揺すぶられ、毎晩自分から進んでA君のためにお祈りを始めた」と書いて来たのです。地球の裏側の12才の少年が孫のため祈ってくれていると知って、私は胸が熱くなりました。

  10年程トルコに住み、去年家族でイタリアに帰国したが、ピエトロ君は余りにも成績が抜きん出ていて、そう、本当に抜群なのです。で、クラスでいじめにあい、気持ちの優しい彼は悩み苦しんで来たのです。それで孫が学校でいじめのようなものを経験していると知って、会ったこともない地球の裏の3才下の日本の少年のために進んで毎日祈り始めたというのです。

  「逞しさ」を、成熟と訳している英訳聖書もあります。人のために祈る。これは逞しさと成熟の徴(しるし)です。何者にも負けない逞しさや体がガッシリした逞しさもあるに越したことはないでしょうが、強くガッシリした意志を持って人を思い遣る。人のための祈りはその典型です。それは愛の一種、いや愛の中心は祈りだと言えるでしょう。

  むろんピエトロ君がイエスのように逞しく育っていると言うつもりはありません。しかし、人のために進んで祈るような徳性を養うことが、今日、大変大事でないかと思います。少年イエスの逞しさはそういう祈りを含んでいた筈です。ガッシリした逞しい祈りが人格の中心を占めなければならないのです。祈りは、人を思い遣る根本的な精神的作業だからです。祈りは愛です。

  私が祈りを強調するのは、それが私たちの逞しい精神の在り方を形作るからで、こういう徳性を備えた人格を養う所に祈りの大きな役割があるからです。

  私はまた暮れの30日に、入院中のBさんをお訪ねしました。他の方々もお訪ね下さっていますが、暮れには骨折の痛みはまだありますが、随分良くなり、リハビリを始めておられました。しばらくお話して帰りましたが、お元気な時とほぼ同じように顔を輝かせて、あの方の素晴らしいのはお顔が輝くことですが、「感謝なことですね。私のような者にこんなに良くして頂いて、イエス様がお守り下さっていることを感謝します」などと、何遍も心から感謝という言葉を出して話されました。入退院を繰り返して来られた東大病院でもそうでしたが、私は改めて暮れに、この方は感謝の人だと思いました。

  入院しつつ感謝に溢れているのです。あの病院で感謝に溢れている人は他にいないでしょうね。グチで溢れているのではない。疑いで溢れていない。不安や心配で、また恐れで溢れていない。ましてや人をこき下ろしたり、悪口で溢れていません。感謝で溢れている。そこに私は精神の逞しさを見ました。しかもそれは真底(しんそこ)キリストから来る感謝です。

  恥骨も骨折している訳で、数か所の骨折の痛さや辛さ。文句が出て来る筈なのに出て来ない。しかもやせ我慢でない。ずいぶん昔、何人かの人をお世話して苦労されたことがありました。彼女は素晴らしい方と結婚しましたのに20代でご主人を亡くし、その後その大変なご苦労をされて、あの難病になられたのです。数年前、そのご苦労をもう少しお聞きしようと、水を向けましたら、「もう思い出しません。思い出したくありません」とキッパリ言われました。その時、神が今、与えて下さる恵みにのみ目を向けておられる姿に接しました。今ある神の恵みにのみガッシリ立って行くという姿です。

  「逞しい少年」。イエス・キリストの救いに与る私たちは、体は細くても心はガッシリ逞しい少年、少女になりましょう。そういう少年少女になることが出来るのです。他者のために進んで祈る少年少女とか、感謝を持って生きる少年少女。この少年少女は年令的にはお爺ちゃん、お婆ちゃんかも知れない。おっさん、おばちゃんかもしれません。年令はいいのです。「先ず神の国と神の義とを求めよ。そうすればこれらのものは添えて与えられる」と言われたイエスの恵みに与って、逞しい少年少女であろうではありませんか。

  それは両親に仕えてお暮しになったイエスに倣(なら)う道でもあるでしょう。そしてそれは、神の恵みに包まれる事へと、神と人とに愛される事へと導かれるプロセスではないでしょうか。


       (完)

                                         2018年1月7日




                                         板橋大山教会  上垣勝



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