逞しい少年


      アンブルサイドからバスであまり旅行者が寄らないケンダルに出ました。      右端クリックで拡大
                                ・


                                            逞しい少年 (中)
                                            ルカ2章39-52節



                               (2)
  イエスは「逞しく」育たれました。日本語で、逞しいとは、勢いや意志が力強い事。気力が盛んで、何物にも負けない事。また力強くガッシリした体格などを指します。ただ、心の逞しさが勢い余って我儘になる場合もあります。

  聖書では、「逞しい」とは、勢いを増すこと、神の偉大な力が増し加わることを指します。イエスはむろん我儘に育たれたのでなく、ガッシリした強い意志の逞しさで人を思いやるようになられたのです。

  12才以後のナザレのイエスは、ご自分と他の人の違いを知っておられたでしょう。その認識を深めて、人への憐れみの心、慈愛の心を一段と深め、深化して行かれたに違いありません。

  逞しいの「逞」という漢字は、今ではもっぱら逞しいと読みますが、元は、満ち溢れること、盛んなる事を指すと共に、憂いを解き放つと言う興味ある意味もあって、中国とパレスチナでは随分距離も考えも違いますが、「逞」という漢字に関する限りどこか微妙なつながりがある気がします。

  イエスに育ったガッシリした逞しさは、他者への愛を深めて、苦しみや迷いから人々を解き放つ意志的な力であったと言ってよいでしょう。確かに、5つのパンと2匹の魚で5千人の群衆を養われた時、イエスは飼う者のない羊のように弱っている群衆を見て、腸が捻じれて痛む程、「憐れに思って」養われたとある事とも符合します。

  そういう虐げられた人や小さくされた人への愛の強い意志を、父親と大工をしながら育てておられたのです。繰り返しますが、強い意志と言っても我儘な強さでなく、人の悲しみや苦しさを知って共にあり、それを解決しようとする強い意志です。

  ベートーベンは聴力を全く失う中であの田園交響曲や月光、また運命や第9を作曲していきますが、32才で有名なハイリゲンシュタットの遺書を書いています。28才頃からドンドン難聴が酷くなり、音楽家にとって致命的な聴力を失って遺書を書きます。その中で結婚して子どももいた2人の弟に、君たちの「子どもらの徳性を磨け」とアドバイスして、「徳性だけが人間を幸福にする。金銭ではない。惨めさの中でさえ私を支えて来たのは、徳性であった」と述べています。徳性を磨くという事は現代では疎(おろそ)かにされています。そこに現代の歪みを感じます。徳性だけが人を幸福にする。ベートーベンは人の悲しみ、痛みを知った。彼は大変貧しい家に育ちます。父親は飲兵衛で、ベートーベンに才能があると知ると、彼をダシに酒代をせびります。人の痛み、悲しみ、自分の行き詰まり、そこからこういう考えに導かれたのでしょう。

  イエスの徳性と私たちの徳性は質的に違いますが、大工をしながら、イエスは逞しい徳性を磨かれた。人を深く思いやる徳性を育てられたと言ってよいと思います。


       (つづく)

                                         2018年1月7日




                                         板橋大山教会  上垣勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・