安らかな終わり


       少年が自転車を担いで登って来た階段を下るとアンブルサイドの町が眼下に現われました
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                                           安らかな終わり (下)
                                           ルカ2章25‐32節



                               (2)
  色々述べましたが、シメオンが、「今こそ、僕を安らかに去らせて下さる」、シャロームと語ったことに戻りますが、創世記を見ると、神は天地万物をお創りになり、造ったすべてをご覧になると、「それは極めて良かった」とあり、7日目に神はその仕事を離れ、「安息なさった」と書かれています。

  神の天地創造の最後は神の安息で飾られます。安息とシャロームは違いますが内容的に同じです。神のシャロームには力が満ちています。晴々した安らかさであり、まったき休みです。この神の安息が被造物に喜びをもたらすのです。絶対者による何物にも奪われぬ平和、平安、休息です。

  反対に神によるシャロームの欠如、神の絶対的な安息を欠くと(神の安息を知らず、それに与らない時に)、私たちは苛立ち、苦しむのです。神の安息の中に抱かれ、その中にあることを知る時に、私たちに平和が生まれ、平安が与えられるのです。また、この平和こそ若さを生み出します。背後に神の活ける生命があるからです。

  また、私たちが神の平和に与る時、少しキザな言葉ですが、「私たちが自分自身の近くにいることができる以上に、神が私たちの近くにいて下さることを知る」のです。この素晴らしい「神われらと共にいます」を知る時、シメオンのような、「主よ、今こそ、僕を安らかに去らせて下さる」というほとばしり出る満たされた平和、平安、安息が、心に生まれます。

  2017年12月31日、今年最後の日を迎えました。時間はただ前進するのみで後退することはありません。過ぎ去った365日に起こったことは、どんなに許し難いことも、受け入れ難いことも、喜びも悲しみも、変えようがありません。それら、変えることのできないものは神に委ねしましょう。重荷もイエスの十字架の前に持ち出し、すっかりそこに置いてしまいましょう。自分の手元に取っておいてはなりません。

  そして「神様、あなたのみ旨のみを行なって下さい」と、私たちの経験した善きこと悪しきことすべてに、審判者であられるあなたが決着をつけ、帳尻を合わせて下さるように祈り、安らかに終わりの日を迎えましょう。そして後ろのものを忘れ、明日に向かって、キリストから希望を与えられて前に進みましょう。

  キリストはきのうも、今日も、また明日も進み行かれます。キリストのおられる所に平和があります。2017年を後にし、平和の主に導かれて新年を迎えて行きましょう。

  シメオンが神を待ち望んだように、私たちも今日の社会の中で、祈りを持って待ち望みたいと思います。私的な事が色々起こりましたが、自然災害にあった人々、自分の事だけでなく、遠くのまた身近な、悩みを持ち、苦労するすべての人のために祈りましょう。国内のまた世界の不安定な職につく人たちのために祈りましょう。多くの苦労する難民のために祈りましょう。職を求めて来日し、苦労している人たちのことも祈りましょう。外国人でホームレスの人たちもいます。争いの火種が各地にあります。世界の紛争が、暴力でなく双方の話し合いで解決されるように祈り、信頼を生む社会が作られるように祈りましょう。富む者が益々富むのでなく、いかなる人間も尊ばれ、世界の富が出来るだけ公平に分配されるように祈り求めましょう。そういう社会が来なければ私たちの渇きは一層渇き、満たされません。私たちは神の民です。天に栄光、地上に平和があるように祈りましょう。


        (完)

                                         2017年12月31日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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