国際主義者になった老人


     アンブルサイドに戻って北の丘を歩いていると、茂みの中から急に少年が現れました。
           後で見ると彼が上って来たのは下まで200段ほどあるパブリック・パスの急な階段。
                  それにはびっくりしました。            右端クリックで拡大
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                                           安らかな終わり (上)
                                           ルカ2章25‐32節



                               (1)
  今日は、幼な子が馬小屋で生まれて、8日目にイエスと名づけられ、40日目に両親がイエスを連れてエルサレムに宮詣でに行った時の話です。まさかお産後、すぐにはナザレに戻れなかったでしょうから、ベツレヘムの馬小屋で40日間過したに違いありません。マリアはさぞ辛かったでしょう。今では考えられない辛さです。しかし彼らは御使いの言葉に励まされ、羊飼いらと博士たちの来訪に力づけられて、産後の1カ月余を過したのです。

  日本では生後1カ月後に、誕生と健やかな成長を願って神社に参りますが、マリアとヨセフは、幼な子を「主に献げるために」詣でたのです。これは大きな違いです。イエスの場合はこの幼な子の人生を神に捧げるという深い意味を含んでいました。

  この時、エルサレムにシメオンという正しく、信仰深い人がいて、イスラエルの慰められるのを待っていました。当時のイスラエルは信仰的にも霊的にも枯渇し、篤い信仰が衰退した時代でしたが、シメオンは、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを受けて、熱心にメシア、キリストを待ち望んでいたのです。

  ユダヤは当時、ローマの支配下にありました。ヘロデ大王がいましたが、ダビデ王のように先頭に立って信仰を鼓舞する人間ではありません。良い伝統は打ち捨てられ、権力を欲して打算で生きる人間です。民族の尊厳は地に堕ち、真面目に信仰に生きる人は少なくなっていました。そうした中シメオンは、メシアが来てイスラエルが慰められる日が来ることを確信して待っていたのです。

  彼は高齢でした。26節から考えてかなりの歳で、死が決して遠くなく、手の届くほどに迫っていたと思われます。ところが、人はかなり高齢になると、身近な自分の事しか目が行かなくなり勝ちですが、彼は自分を越えてイスラエルの慰められるのを待ち望むという大きな社会的視点を失いませんでした。

  そのシメオンが、幼子を連れて宮詣でに来たマリアとヨセフに出くわしたのです。幼な子を見るや、彼は何か酷く心に感じるものがあり、直ちに幼な子を抱かせてもらい、神を讃えて、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。…」と語ったのです。ヌンク・ディミッティスと言われる有名なシメオンの賛歌です。彼は直観の人、大胆で勇気ある人だったのでしょう。

  「今こそ、僕を安らかに」という言葉が口からほとばしり出ました。これ以上にイエスの誕生を褒めたたえる言葉はありません。長く待望して来た、永遠なるメシアに今出会いました。これ以上、思い残すことはありません。「僕を安らかに去らせて下さいます。シャローム」と語ったのです。永遠の平和が私の心に今、与えられました。これ以上の平安はございません。安らかに死を迎えることが出来ます。この目でしかと、あなたの救いを見たのですから。あなたにお仕えして来た僕に、まだ誰の目にも見えぬものをお見せ頂いたのです。これ以上に光栄はありません。こう歌っている訳です。

  イエスはまだ乳児です。シメオンはまだイエスの活動を見ていません。しかし神に示されて、やがて地上でイエスがなされる愛の業、十字架で成し遂げられる偉大な救いの業、そして全ての人に希望を与える復活など、未だ誰も見ぬ神の業を一瞬に示され、ここに信仰を言い表わしたのです。

  それは次の、「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」という言葉に凝縮されています。この幼な子こそ世界万民の救いのために備えられ、異邦人の希望の光となるお方。このお方が、生まれたのはあなたの民イスラエルの誉れですと語ったのです。

  これは凄いことです。先程申しましたように、彼はかなり高齢者ですが、その視野は広く社会的なものがありました、だがこの賛歌では、それを越えて、この救いは異邦人を照らす啓示の光です。イスラエルの誉れですと告白し、民族の壁を打ち破って、世界を照らす光として来られた救い主を歓迎しているからです。晩年を迎えた老人が、民族主義者から国際主義者に変貌を遂げたのです。頭の柔らかい人だったでしょうが、聖霊に導かれて一層そうなったのです。

  両親はこれを聞いて、「驚いていた」とあるように、シメオンの賛歌は両親も驚くものでした。

  この賛歌は、1章から辿られて来たイエスの誕生の出来事のクライマックスをなし、それだけでなく、全旧約聖書がこの1人のお方に流れ込み、このお方を目指して進んで来たこと示すものです。ある注解者は、「ここに旧約が新約の準備であることが分かる」と書いていますが、その通りです。

  聖書は旧約聖書新約聖書から成り、旧約はイエスの預言をしています。天地創造から始ま
り、アダムとエヴァ、ノアの洪水の話、バベルの塔の物語り、そしてアブラハムに与えられた「あなたを全ての民族の祝福の基にする」という約束、ヤコブやヨセフがエジプトに降り、430年にわたる酷い奴隷生活、そしてモーセが率いる出エジプトの40年、シナイ山での十戒の授与、カナンへの帰郷、士師たちの登場、ダビデやソロモンの時代と500年にわたる列王記の時代、預言者の登場。その全歴史はやがて1人のメシアの中に流れ込み、旧約で預言されたものがイエス・キリストに収斂して成就します。

  シメオンの賛歌はこのイエス・キリストの誕生のクライマックスをなします。だから彼は、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と語るのです。彼は、旧約から何千年となく続いて来た神のご意志がここに実現したことを、今や「この目で見た」と語り、この幼な子に神のご意志が具体化したと証しするのです。シメオンは旧約に属する人です。その旧約の人が新約の新しい始まり、キリストを目にしたのです。

  彼は34節で、母マリアに、「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と語りますが、イエスの生涯の簡潔な預言となっています。

        (つづく)

                                         2017年12月31日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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