大きな喜び


      グラスミアからの帰りリバー・ロゼイ〈グラスミア湖〉の対岸に立つ別荘        右端クリックで拡大
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                                            大きな喜び (下)
                                            ルカ2章8-16節


                              (2)
  御使いは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と告げたとあります。

  羊飼いに大きな喜びが告げられました。だが、その喜びの元は、馬小屋の貧しい飼葉桶に寝かされている幼な子にある。乳飲み子である。生まれたばかりの赤子がボロ切れに包まれ、冷たい湿った馬草桶に寝かされている。これが大きな喜び、元の言葉では「巨大な歓喜」であると告げられたのです。

  ボロ布に包(くる)まれたメシアとは、何と酷いギャップでしょう。王侯、貴族の奥座敷、温かいフカフカのベッド。多くの客がうやうやしくお祝いに訪れる祝福の場所とは雲泥の差があり、馬や牛や鶏たちが、物珍しそうに乳飲み子を覗き込んでいたでしょう。長い舌で乳飲み子の顔を舐める牛もいたでしょうか。だがここには一人の番兵もおらず、厳しい検問もなく、何と平和な場面でしょう。

  これがあなた方へのメシア(訳せばキリスト)、大きな喜びの徴であると告げたのです。そして天使たちの大群が加わり、幼子の誕生を祝って神を賛美した。この時、どんな豪華で奥ゆかしい御殿も、ベツレヘムの馬屋以上に美しく上品で奥ゆかしい場所はなかったでしょう。どんな歌声も彼らの歌声以上に魂深く心地よく響く音楽はなかったでしょう。このお方の誕生を愛でる歌声は天と地の架け橋となって響き渡ったのです。このお方こそ人類が永遠に記憶すべき天の徴である。救い主、メシアが、低く小さい方として、卑しい所に来られた。これが神の御心である。いつの時代をも越えてキリストは卑しい人々、貧しい、低い所に来られるのです。友のない人を訪ねられるのです。飼葉桶とボロに包(くる)まれた乳飲み子は永遠の聖(きよ)き神の御心のシンボルです。

  「この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して」とあります。これは味のある言葉だと思います。天の大軍がそれぞれ大声で独唱したのではありません。イエスの誕生を愛(め)でて、天の大軍がコーラスで神をほめたたえた。コーラスという言葉は日本の小学生でも知っています。しかし日本語では判別できませんが、この語は何人いても単数形で書かれます。どうしてでしょう。

  コーラスは声が揃い、声が合っていて、初めて一つのコーラスになります。声が合っているのは心が合っているからです。合っていると言うより、心を合わせているからです。耳の痛いことを申上げますが、これは神をより素晴らしく讃美するためにお話しすることですが、声を合わせるには、声の大きい人は声を小さくし、小さい人は大きく出して、初めて全員の声が溶け合い、響き合い、一つに調和して聞こえます。声が溶け合うことが大事です。このちょっとした工夫、他の人への配慮で、心が合い、良いコーラスが生まれます。天の大軍はそういう互いの配慮をして神を賛美したのです。

  私たちはこの後、「きよしこの夜」などを歌いますが、自分の声の大きさを調節して、皆と心を合わせる一つのコーラスにしたいと思います。

  天の大軍は、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と讃美しました。「いと高きところ」とは、むろん神のおられる所、また神自体を指します。その方に栄光、誉れあれ。そして地に平和、「御心に適う人にあれ。」神の意に適い、神に喜ばれる人に平和がありますように。世界で最初のクリスマスに天地に響いた素晴らしい合唱です。

  神に栄光、地に平和。この2つは切り離せません。神に栄光が帰せられる所では、御心に適う人たちに平和があれという祈りが伴います。また地上に平和があれと心から願われる事は、神に栄光が帰すことにつながるでしょう。神は、戦争や争いを作り出す人を求められません。神が求められるのは、平和と和解と信頼を作り出す人たちです。

  軍備の増強がいよいよ日本で始まろうとしています。来年度予算案にそれが見て取れます。危険な道です。軍備増強はその矛先を向ける国に、必ず軍備増強を促すでしょう。そうなると、こちらはそれに増して増強することになります。すると向こうもしますから、またこちらもということになります。軍拡競争はいつの時代もそんな愚かなイタチごっこをして、障碍者や高齢者、生活困窮者などへの支援が少しずつ減らされて行きます。今始まろうとしているのはそういう愚かな政策です。国を滅ぼすことになる愚策です。それ以上に恐ろしく危険なのは、目の前にいる私たちが知る小学生や幼児たちが成人した時代(10年か15年先)に戦争に駆り出されることになるかも知れないことです。

  しかしクリスマスは、「神に栄光、地に平和」を告げるのであって軍備増強ではありません。核戦争の可能性が無きにしも非ずの時代です。平和のための懸命な対話の模索に、為政者は今のようにお座なりでなく、もっともっと真剣に腰を入れなければなりません。今年のクリスマスに際し、平和への道を進み、再び戦前の轍(てつ)を踏んではならないこと、それは平和のキリストの御心でないとはっきり申し上げたいと思います。


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  この6月にイギリス北部のフォークスヘッドという小さな村を訪ねました。そこに桂冠詩人と呼ばれるワーズ・ワースが学んだ1585年創立の小学校がありました。今から432年前に出来た学校で、日本で言えば信長時代の開校です。教室は1階と2階に1つずつ、小さな学校でした。さすがに今は使われていませんが、教室に入ると白い壁にこんな言葉が書かれていました。「小さな礼拝でも、それが継続する限りまことの礼拝だ。」心に止まる言葉でした。

  何百人、何千人が集う大きな礼拝が優れているという訳でなく、小さくても、まことの礼拝が長く守られていればいいのです。大会衆を集める教会があろうと羨む必要はないと言うことでもあるでしょう。そこで幼な子キリストが心から崇められ、神の栄光が支配し、恵みが満ち溢れていればそれで十分なのです。

  小さい家でも、そこに信頼と愛が止むことなくあれば、いい家庭です。ザアカイの家のような大きな造りでなくていい。笑いと赦しと遊びもあれば更に良いでしょう。子ども達は健やかに育つでしょう。家庭の中でも競争と金儲けと駆け引きで汚染されていれば育つ子も育ちません。むしろ怖しいものが育つかも知れません。

  山本周五郎という作家は、「足軽を生きよ」と書きました。足軽を生きるのです。「百石取りの侍になるより、足軽でよい、なくてならぬ者になれ。」足軽でも一生懸命に生き、なくてならぬ者になれ。

  今の時代、余りに大きなものを求め過ぎて、足を掬(すく)われているように見えます。足軽でよいのです。なくてならぬ者になれ。そうすれば必ずあなたは用いられて行くでしょう。

  本当の大きな喜びは小ささの中にあるのではないでしょうか。飼葉桶の幼な子メシア、これが救い主の徴なのです。この卑しい幼な子において、全ての民に人生の喜びが授けられる、究極のお方、メシアが来ておられるのです。


            (完)


                                         2017年12月24日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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