誕生の時から人生を味わう


                地上で一番清らかな場所、グラスミア         右端クリックで拡大
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                                           馬小屋の赤ん坊 (上)
                                           ルカ2章1-7節
 

                              (1)
  今日も、子ども達への話と同じ聖書個所を選びました。今年はクリスマス前に、何度もクリスマスを考えることができ、濃厚なクリスマス・シーズンになって嬉しく思います。

  今日の1節に、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」とありました。皇帝とあるのはカイザルというギリシャ語です。「全領土」とあるのは、ローマ帝国全土のことです。この頃のローマ帝国は、東はパレスチナから西はスペインまで、南はエジプトも支配下に置いて、地中海沿岸の全域が領土でした。

  その全域の住民に住民登録をせよとの勅令が出たのです。「勅令」とあるのはドグマという言葉で、教義とか教理とも訳されますが、ここでは皇帝の絶対命令です。戦前の天皇の勅令、詔勅も絶対命令でした。反抗者はひっ捕らえて豚箱にぶち込み、酷い拷問の末、絞首刑にする厳しい命令です。戦前・戦中は良心的な人には怖い社会でした。

  この勅令に従うことはアウグストに白旗をあげて屈服すること。恭順を認めることです。ローマ帝国の方から言えば、領民であるのを承認させ、税金を徴収するために人口調査の登録をせよと勅令を出したのです。

  職場にも学校にも規則があります。それらの規則は今日は緩やかですが、ローマ帝国の勅令は軍隊を背後に、力で威嚇し屈服させる命令です。カイザルのシンボルはローマ軍の軍旗に象徴されて、旗の先に鷲のマークと剣と棍棒のマークがついていました。これはファッシーズと呼ばれる束で、ファシズム、独裁政治という言葉はここに由来します。「ローマの平和」と言えば、ロマンチックな甘い響きさえありますが、実際には剣と棍棒と、空の王者の大鷲で象徴される有無を言わせぬ恐怖によって打ち立てられたものです。

  「キリニウスがシリア州の総督であった時に行なわれた最初の住民登録」とあるのは、アウグストの勅令と共に、イエスの誕生が歴史的事実である事を明らかにしています。医者であり歴史家であるルカは客観性を尊びますから、キリストは想像上の人物でなく歴史上の人物であることを繰り返し述べるのです。

  「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」のです。「泣く子と地頭には勝てぬ」と言いますが、仕方なく、黙々と従ったでしょう。そんなアウグストが絶対的権力を奮う時代に、ヨセフといいなずけのマリアも黙々とそれに従い、ベツレヘムに行き、「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」のです。

  ローマ皇帝ならどこに行っても宿が取れるでしょう。皇帝でなくても、お金があれば馬小屋に泊る必要はないでしょう。だが、彼らには泊まる場所がなく、馬小屋で初子を出産し、飼葉桶に寝かせたのです。

  要するに、イエスは社会の底辺に生まれました。いや、馬小屋ですから、そこは人でなく獣がいるべき所です。布とあるのは使い古した汚れたボロ切れです。温かい産湯もなく、明るい陽の光が差し込まない、夜も適当なランプがない、冷たく湿った臭い馬小屋の飼葉桶です。飼葉桶に綿の布団はなく、麦わらや草の茎が肌をチクチク刺します。と言っても、富や地位ある者を羨むでなく、社会の底辺、底辺の人たちがいる所に来て、呱々の声をあげられ、そんな所に生まれたのを喜んで育たれたのです。

  キリストは神の御子ですが、聖なる尊い場所でなく、色んな痛みを持つ人の所に来られたという事でしょう。いや、痛み、悩む人たちの場所をも聖なる場所、意味ある場所にするために来られたのです。イザヤ書に、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知る」人であったとありますが、イエスは誕生の初めから、人の悲しみと苦難、辛さを知る人でした。また彼らの友になられました。

  皆さんもよくご存知のアンデルセンは、生まれると先ず寝かされたのは、黒い布切れが幾つか残る背の高いベッドでした。父親は貧しい家具職人で、アンデルセンが生まれると、数日前まで黒い布で覆われ高貴な人の棺が置かれていた台を我が子のベッドに作り直したのです。それで黒い布切れがついていたのです。お葬式の棺の台とそこに乗せられた生まれたばかりのわが子。彼は誕生の時から人生とは何かを味わったのです。

  しかし、アンデルセンは貧しくても両親に愛されて育ち、人の痛み、悲しみを知る人となって、あの素晴らしい数々の物語を書いていきます。世界アンデルセン賞なんて言う華やかな賞がありますが、彼自身は悲しみと悩みを知る人、愛の尊さを真に知る人でした。

  マリアとヨセフは、ガリラヤ地方のナザレから、エルサレムの南に位置するベツレヘムまで約200キロ。山あり谷あり、時に雨が降り道は滑ります。ヨルダン川を2度も渡らなければなりません。妊婦にはつらい旅です。マリアは初めての出産です。いつ陣痛が起こるか知れない中、若い二人は励まし合いながら先を急いだでしょう。

  それにしてもマリアもヨセフもイエスも、結局、カイザルの言うがまま、右に行けと言われれば右に、左に行けと言われれば左に動かされています。結局地位と権力には誰も勝てない。そう見えます。しかしイエスは動かされていながら、動かしている皇帝を遥かに超えておられます。その手の中にありながら、それを遥かに超えているのです。もしアウグストがキリストを越えていれば、彼の権力は今も21世紀の私たちに及んでいるでしょうが、そうなっていません。

  それに対し、キリストの愛の力は2千年の時を越え、民族も国家も海も越え、あらゆる壁を越えて今日にまで及び、今後も何千年とその隣人愛の力、平和の教えは遠くまで及ぶでしょう。しかもキリストはいつの時代も、人の頭ごなしに力を奮う権力的な力でなく、人類の足もとから、底辺から人の魂に光を照らされる方として来られました。

       (つづく)

                                         2017年12月17日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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