無邪気さとキリスト教


    グラスミアまで足を伸ばしました。そこにワーズワースの住んだDave cottageがあったからです。
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                                            不安を抱く王 (下)
                                            マタイ2章3節



                               (2)
  さて私たちが学びたいのは、東方から来た博士たちです。彼らはヘロデに送り出されて進むと、暫らく見失っていた星を再び見つけて、「喜びに溢れた」のです。飛び上がらんばかりにどんなにか喜んだことでしょう。旅の疲れも忘れ、元気に顔を輝かせて星を見失わないように進んだでしょう。そして幼な子が母マリアと一緒におられる家に入って、ひれ伏して幼な子を拝み、宝の箱を開けて黄金、没薬、乳香を贈り物として献げたのです。

  ヘロデの「私も行って拝もう」、心から敬意を表わそうという言葉はまったくの口から出まかせ、真っ赤な嘘(ウソ)でした。しかし東方の博士たちの敬意は本物でした。彼らは、ただこのお方を拝みたい。心から敬意を表わしたい。このお方の前に真実にぬかずきたいという無邪気さを持って、東方から遥々ベツレヘムまでやって来たのです。実にシンプルな、単純率直な、心の濁りのない人たちです。

  キリスト教信仰は本来いたって無邪気な行為です。愚かしさをも感じさせます。それは何ら報酬を求めず、ただ真理であるお方に接し、このお方を礼拝したい、崇めたい、このお方と交わりに入らせて頂きたいという願いです。ご利益(りやく)でなくご利益(りやく)を越えた信仰です。

  彼らは本当に無邪気でした。邪心がなかった。だからこそ、神は、幼子キリストを殺そうと企てる王をも用いて、博士たちをキリストへと導いたのです。予めこの王がどういう人物かを知って、その態度や言葉をあまりに用心し過ぎて、結局彼らが出掛けなければ、また考え過ぎて別の場所を探していれば、キリストに巡り合えなかったでしょうが、彼らはためらうことなく王に、星の現われた時期を打ち明けたので無事、イエスの所に辿り着けたのです。とかく考え過ぎたり、利益を計算し過ぎると却って失敗します。そんな事を彼らから教えられるかも知れません。

  彼らが家の中に入って見た幼な子はボロにくるまれて寝ていた。貧しい身なりの母とボロにくるまれた幼な子が、冷たい湿った馬小屋にいるのを見て、これがやがてユダヤ人の王となるお方かと思って、さぞ驚いたでしょう。そんな思いがサッと頭をかすめたでしょうが、すぐ振り払って純粋に喜んだのです。彼らは貧しさや貧困に対しても無邪気であったのです。だから恐れずこのような幼子に持ち来たった宝物を、全て献げたのです。無邪気でなければ、幼子を見て、宝物を献げず持ち帰ったでしょう。計算高くももったいないと思って――。

  しかし、私たちは東方の学者たちに大きな勇気を与えられます。あらゆる時代の中、神とかキリストとかに無関係に生きているのが大半の人たちである中で、真理を求めて旅し、危険を冒して尋ね求め、真理の前にぬかずく少数の者がいる。必ずいるということに勇気を与えられます。真理は真理自らが明らかにすると言います。キリストが真理なら、必ず神はキリストにぬかずく人たちを創り出されるでしょう。誰だってカスを喰(くら)うような無駄なことをしたり、苦労をしたりするのは嫌です。また誰だって命が惜しいです。けがをするのは嫌です。それに、星の導かれるなんて当てになるのか。その様な冒険を犯すのは頭が狂っているのでないか。でも、真理を求め、キリストを尋ね出し、キリストに従う人はこの地球上から決してなくならないでしょう。彼らはリスクを冒してまでそれを求めるのです。そして私も彼らの最後尾にあってそのうちの一人として生きたいと思います。

  イエスは、「子どものようにならなければ、神の国を見ることは出来ない」と言われましたが、私たちは中々子どものようになれません。そう思うと、こんな自分は救われるのだろうかと思ったりします。

  しかしキリスト教を見れば、逆に膨大な神学思想があり、巨大な教会組織がありますし、その建築物も壮大そのものです。キリスト教文化となればもう究めることができないほどの広大な広がりを持っています。キリスト教文学だけでも、音楽でも、人類の大きな財産です。そこに、「子どものようにならなければ」と言われたイエスのお言葉との矛盾を感じます。

  だがそれでいいのです。キリスト教の根源は至って無邪気です。単純です。そして無邪気さこそ、単純さこそそのような膨大な、壮大な思想、文化、建築、組織、神学思想を作り上げることが出来るのです。

  なぜなら無邪気さこそ、出し惜しみしない人間を生み、東方の博士たちのように、多くの宝物を幼子のみ前に惜しみなく捧げる人間にするのです。情熱を傾ける人たちをも生むのです。東方の博士、実は彼らは当時の最高の学者であり、知識人でした。その最高の学者たちが最高のものをこのお方にお捧げした所に、その後のキリスト教徒たちの生きた姿があると言っていいでしょう。

  ヨハネ福音書8章12節にイエスの言葉が記されています。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 博士たちが遠く東方から生命の危険を冒して旅して来たのは、この幼な子はダビデにまさる偉大な王、世の光であり、この幼な子によって私たち人類は命の光を持つことができ、この命の光を頂くなら、誰しも暗闇の中を歩むことがないことを心に示されたからではないでしょうか。

       (完)


                                         2017年12月10日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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