不妊の祝福


  ウインダミア湖北部の町アンブルサイド。病人は気が重くなり一層悪化するかも知れません?
      ここで産出する黒ずんだ石が使われ町全体が独特な風景でした。        右端クリックで拡大
                                ・



                                           老夫婦に起ったこと (下)
                                           ルカ1章5-17節



                               (2)
  さてザカリアは、祭司職のしきたりで籤を引いたところ、「主の聖所に入って香をたくことになった」のです。一生に何回あるか知れない、まことに名誉な仕事に当ったのです。彼は慎重に、落ち付いて、礼儀正しく香を焚いたでしょう。

  するとそこに、「主の天使が現れ、香壇の右に立った。」驚いた彼は不安になり、恐怖に襲われたのです。天使は、「恐れることはない。あなたの祈りは聞き入れられた。妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。…彼は主なる神の御前に偉大な人になり、人々を神のもとに立ち帰らせる。…」と語ったと記されています。

  「あなたの願いは聞き入れられた」とありますが、この老夫婦は長年、子どもが与えられることを祈って来たのでしょう。しかし、若い間は熱心に祈ってはいたが老人になった今は、祈っていたことさえ忘れていたに違いありません。ところが本人たちがとっくに忘れた頃に、「あなたの願いは聞き入れられた」と告げられたのです。

  神の方は、私たちの祈りを忘れられません。真剣に祈ったことは、違った形になろうと必ず叶えられます。人が忘れても、時が満ちると成就されるのです。

  先週、先々週は、イエスの誕生が700年以上も前から、旧約聖書で預言されていたことを学びました。今、まだキリストの誕生でなく、キリストの道備えのために直前に生まれるヨハネの誕生が、神殿の奥深くでこっそりザカリアに告げられたのです。言葉を変えて言えば、神殿の奥深くで世界のすべての民の救いが備えられていたということです。

  静岡に柿田川の湧き水というのがあって見事な実に澄んだ清流が流れています。夏にはヤンマなど色んなトンボが飛びかうそうです。富士山に降った雨水が地中に沁み込み、10年か20年、伏流水として地中に潜ってゆっくり流れ、やがて地表に湧き水となって現われるのだそうです。

  イエスの誕生は神のご計画の中では何千年も前からあったものです。大変深く、長いいわば伏流水です。それが誕生の700年も前に預言者を通して告げられ、やがてヨハネが生まれてキリストの道を備え、やがてキリストが来られる訳です。

  旧約聖書に、アドナイ・エレ、「主の山に備えあり」ということが出て来ますが、神は私たち人間に必ず最良のものを備えられるのです。たとえ一時的に困難や試練があっても、困難な険しい山にも神が最善の道を備えられることを信じて疑わず、堅く信頼して生きる人を最善の道へ導いてくださるのです。主なる神、偶像でなくまことの神は、私たちに本当の生き方をお教え下さるのです。

  神は子どもの生まれない不妊の女エリサベトを用いられたのです。英語で不妊はバレンと言います。これは不毛、実を結ばない、殺風景を指します。日本では確か、石女(うまずめ)と書いて「いしおんな」などと酷い呼び名で呼びました。結婚して何年か経っても子どもが出来なければ離婚させられ、前世に動物を殺した罰や祟(たた)りだとされてその女性は忌み嫌われたのです。しかし神はバレン、不毛の女性エリサベトをキリストの御用のために用いて、彼女はヨハネという偉大な人を生むと告げられたのです。

  これは素晴らしいことです。エリサベトはやがてヨハネを生むことで用いられますが、この聖書はエリサベトの場合とは違うにしても、もう一つ別のことも語っているかも知れません。

  それは不妊の女性は、人々から不毛だ、実を結ばぬ女だ、殺風景な人などと酷評されて悲しい経験をするかも知れないが、不妊は神の裁きではないのです。むしろ不妊も神の祝福なのです。自分の希望と神の御心は違っているし、違っていてよい。ただ自分の希望や期待を神の御心と思う所に勘違いがあります。そんな風に考えると、不妊は2000年前のパレスチナの人たちが考えたのと同じく、またつい近頃まで日本に根深くあったように、神から見捨てられたことであり、敗北となります。だが不妊も神の祝福なのです。そこに人の思いを越えた神の祝福と予定が隠されています。必ず隠されていて、その人が子どもを儲けること以上に意味ある人生を切り拓くことが出来るのです。神の自分たちへの御心が、子どもを授けられない事にあると心を決めて生きるなら、そこから思い掛けない道が拓かれて行くのではないでしょうか。

  考えてみてください。子どもがいないことや独身が恥ずかしいことでしょうか。イエスは独身者だったし、子どもを儲けられなかったのです。

  Aさんの座右の銘であった箴言16章9節をお読みして終わります。「人間の心は自分の道を計画する。(だが)主が一歩一歩を備えて下さる。」

       (完)


                                         2017年12月3日



                                         板橋大山教会  上垣勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・