子どもは母の愛の目で育つ


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                                         君を照らす光は昇る (上)
                                         イザヤ60章1-3節



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  「起きよ、光を放て」とありました。しかし「起きよ、光を放て」と命じられても、どう光を放てばいいかと困る方があるかも知れません。自分の中に光がなく、光も確信もないのが悩みなのに、外に向かって光を放てと言われても酷だと思うわけです。私の青年時代がそうでしたから、こういう思いを抱く方があれば、お気持ちがよく分かります。

  自分を考えてみれば、20才前後の自分は心に不安が一杯ありました。悩みで満ち、我慢していましたが、時々それが言葉や態度や表情に表われたに違いありません。ですから「光を放つ」とは到底考えられない自分でした。皆さんはどうでしょう。

  もし「光を放て」ということが、人々に愛を放てと言うことであっても、そしてそう読んで間違いないと思いますが、表向き私はそういう顔をしていたとしても、愛の乏しい人間でしたから、一層自分の惨めさを心に思わざるを得なかったのです。人生で最も悲しいことは、富がないことではありません。持ち家がないことでもありません。愛がないことです。もし愛無しが人生の総決算なら、それは空しい人生になろうと思います。

  今、大変暗いことを申しました。しかし、「光を放て」と言われて、自分は実は光を放てない、愛を抱けないと苦しむ方があるとしても、実はそれでいいのです。事実がそうなら、その自分に正直に向かうべきだと思います。

  しかし、この60章1節は初めに、「起きよ、光を放て」と命じていますが、その理由をその後にちゃんと示して、何故なら、「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と語っています。何故ならとはありませんが、意味はそうです。それだけでなく前の口語訳聖書では、「あなたを照らす光は既に上ったから」という意味に訳していました。また多くの英訳聖書もそう訳して、「あなたを照らす光が昇ったから、光を放て」と書いています。将来、あなたに昇ると言うのでなく、今昇っている。輝いている。だから、「光を放て」、その光を反射しなさいと勧めるのです。

  自分の上に輝いている光にまだ気づかないのかも知れません。それは、光を背後から受けているからかも知れません。即ち光に背を向けているから、光が見えないのです。また、今までの習慣から別の物に目が逸れて、別の所を見ているからかも知れません。また目をつぶっているので、神の光が見えないのかも知れません。

  しかし聖書は、あなたを照らす光は既に昇った。あなたの上に昇って、輝いていると語ります。この光は、この世から来る光でなく、別の次元、高い神の次元から差し込んでいる真実な光で、主の栄光があなたの上に来ているのです。

  だから、起きよ。目を覚ませ。立ち上がれ。光を放てと言われるのです。これは命令というより、私達への慰めの言葉です。無理に持っていないものまで出して、背伸びして張り切りなさいと言われているのではありません。先程言ったように、あなたに昇った光を仰いで、反射して生きなさいという事です。

  若いスポーツ選手や輝き始めた若い女優がインタビューで、「自分をもっと輝かせたい」と胸を張って語っている場面を時々目にします。それは青春の特権のような言葉ですが、聖書はここで自分の光を輝かせよと言っているのでもありません。あなたの上に輝く主の光を反射して光を放つのです。自分のような者にも光が届けられている喜びを表すのです。

  信仰は実に単純です。神に感謝するだけです。神を喜ぶだけです。神を喜ぶことが最大の光り輝くことです。何かをなし遂げるというのでなく、神を仰いで喜ぶのです。神への最大の応答は感謝と喜びです。

  先週は、幼な子から学ぼうと申しました。幼な子を見ていると、母乳を飲みながら、時々母の目をじっと見つめていて、急ににっこり笑ったりします。幼な子は、母の笑顔を見て、自分を愛し、甘える自分を許してくれる人が自分を抱いてくれているのを知ってにこやかに笑うのです。一時、母の目をしげしげ見てニコッとする。そして安心して、別のものを見たり、他のことをしたりしています。瞬間的ですが、この一瞬の母の笑顔とのアイコンタクト。これが重要なのです。子どもは母の愛の目で育つのです。

  私たち信仰者も、自分に注がれる神の愛の目を見て喜び、感謝する。その時信仰が育つのです。詩編に、「神よ、み顔を向けて下さい」とあるのがこれです。これが信仰の基本の姿だと言って過言ではありません。幼子が無心に遊べるのは、母の愛情が確信できるからです。そのような環境を作ってあげるのが大人の責任です。

        (つづく)

                                         2017年11月19日




                                         板橋大山教会  上垣勝



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