涙の渇く間のない祈り


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                                            幼児に学ぼう (中)
                                            マルコ10章13-16節


    (前回からの続き)
  前の讃美歌510番にこういう歌があります。「まぼろしの影を追いて、浮世にさ迷い、移ろう花に誘われ行く 汝(な)が身の儚(はかな)さ 春は軒の雨、秋は庭の露 母は涙 乾く間なく 祈ると知らずや。」
  意味は、神から離れ、放蕩や富の追求また世の華やかさに心奪われてそれに耽っている息子や娘を、何とか信仰の道に導こうとする、母親の切ない気持ちを歌っています。ある人がインターネットに、今の若者にも分かるように噛み砕いて歌詞を書いていました。それに少し補足してお読みしますと、

  1.信仰からほど遠いこの世の快楽を追い求め、美しい女に誘惑されているあなたの危なっかしさ。また華麗な上流社会に誘われ、社交の中に浸る迷ったあなたの生活。だが華やかさは一時の儚(はかな)い夢です。
  (繰り返し)春は軒からしたたり落ちる雨のように、秋は庭草につく露のように、あなたの母は一年中、涙の渇く時もなく、神様にあなたのことを祈っているのですよ。
  2.幼くて悪い遊びなどに縁がなく、むずかっては、この母の胸に抱かれて揺られていた純真な思いを忘れてしまったのですか。(繰り返し)
  3.あなたの母が信仰している神様の元に来ないのでしょうか。小鳥が自分の巣に帰ってくるように安らかな気持ちになりますよ。(繰り返し)
  4.あなたのことを心配して祈る母が、いつまでもこの世にいられるわけではありません。永久に後悔する日が来ないうちに、早く神様のもとに帰っていらっしゃい。
  春は軒からしたたり落ちる雨のように、秋は庭草につく露のように、あなたの母は一年中、涙の渇くときもなく、神様にあなたのことを祈っているのですよ。

  このような長い期間の真実な祈りは愛です。この祈りが実ってくれれば嬉しい。だが実らぬこともあります。それでも祈り続ける…。

  「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」当時は、子どもも女性も低く見られ、数に入れられもしない時代です。そんな時代にイエスは、子どもらが私の所に来る邪魔をするな。禁じてはならないと強く戒められた。当時の社会からすれば、女性や子供らへの新しい時代の夜明けを告げる言葉です。

  「神の国はこのような者たちのものである。」神の国はこのような者たちに「属している」とも訳せます。そして、「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」のです。両腕に抱き、心を込めて熱く、激しく祝福するという意味です。神をほめたたえる、賛美するという意味もあります。イエスは小さい子らを、神に感謝されました。この子どもらに何かをして下さいというより、そのありのままに、神が造って下さった事で、世に送って下さった事を先ず神をほめたたえられたのです。

  イエスの明るく笑いかけるお顔が思い浮かびます。暗い、喜びのない顔でなく、目を細め、楽しげににっこりされる優しいお顔です。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くお顔です。

  ある人がこんな事を言っています。家の周りで子ども達が声を上げ楽しげに遊んでいる。子どもがいても、そんな子らの楽しい姿を見かけない家庭のキリスト教信仰は信じることは出来ない。耳の痛い言葉かも知れませんし、現代の忙しい時代では必ずしも適切と言えませんが、事の真相を突いた言葉です。国のリーダーは、どの家庭でもこういう事が出来る余裕のある社会を作らなければならないのではないでしょうか。憲法9条を変えてそうなるとは思われません。

          (つづく)

                                         2017年11月12日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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