愛は時間を浪費すること


               ビアトリックス・ポターの寝室は昔のまま(ヒルトップで)    右端クリックで拡大
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                                            幼児に学ぼう (上)
                                            マルコ10章13-16節



                               (序)
  先程の幼児祝福式で、1才のA君の手に触れましたら柔らかな肌、ふっくら光るようなみずみずしい肌で、思わず抱きしめたくなりました。彼のつぶらなウルっとした目と合ったとき黒い瞳が輝いていました。こういう子どもらがいる礼拝は素晴らしいです。嬉しく思いました。

                               (1)
  「イエスに触れて頂くために、人々が子供たちを連れて来た」のです。10才前後の子もいたでしょうが、恐らく1才程の幼児でしょう。ユダヤでは古くから、1才になると長老やラビ(律法の先生)に祝福して頂いて、神の恵みと長寿や知恵にあやかりたいという習慣があったからです。

  「触れて頂くため」とありますが、触って頂く、結びつけるという意味と共に、「火をつける」という意味もあります。ローソクに火をつけると輝き始めます。辺りをパッと光で照らし始めます。人々は、イエスによって子ども達の命に火をつけて頂き、人生をよく生き、人の為に光を放って生きるように祝福して頂こうとしたのでしょう。

  ところが弟子たちは「叱った」のです。親たちと子どもらをたしなめ、咎めたのです。ところがこれを見てイエスは「憤り、弟子たちに言われた」のです。憤慨し、凄く立腹されたというのです。

  どういう状況でしょう。一体、何を言いたいのでしょう。イエスはこの時、十字架に向かっておられました。8章でイエスは第1回目の受難と死の予告をされました。2回目の受難予告は9章に出ていました。そして3回目はこの直ぐ後に出て来ます。最初の時は、弟子のペトロがそれを聞くや、イエスを脇に連れて行き、「何て事を言うのです。とんでもありません。もう決して言わないで下さい」というような事を言って「諌め始めた」とあります。また2回目の受難予告では、弟子たちはその真意が分からなかったが、「怖くて、尋ねられなかった」と書かれています。

  ですから弟子たちは、今、イエスの身に相当由々しい事が起らんとしていると感じていたのは明らかです。だからピリピリし、子どもらが来たので、眉間(みけん)に皺を寄せ、声を潜(ひそ)めて、ここに来るなと叱ったのでしょう。むろん良かれと思って叱った。

  とこがそれを見てイエスは弟子たちに、凄く憤られた。そして、「『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。…』と語り、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」のです。

  イエスご自身は十字架を覚悟していました。ところが、その緊張をよそに、子どもに笑い掛け、優しく手を差し伸べて彼らを一人一人抱いて、頭をさすって祝福されたのです。十字架に掛けられる前なのに何たる余裕。この時の子どもらとの触れ合いは短い至福の時であったでしょう。だから険しい目で叱る弟子たちに憤られたのです。

  イエス様は子どもたちの為に時間を割(さ)かれたのです。子どもとの接触をおろそかにせず、母親たちが子どもらを連れて来たのを喜んで受け入れ、子らと遊び、子らとの間で時間を浪費やされたのです。大人から見れば浪費と映ったでしょう。今日でも、子どもとの触れ合いを浪費と見る風潮はまだ残っています。だが、愛は時間を浪費することです。愛が本物であればある程、時間を使います。人は、無駄と見るかも知れないが、イエスは時間を割き、「神の国はこのような者たちのものである」とさえ語られるのです。

  教会で子ども達へのメッセージをお話し下さる皆さんは、誰しもそのために何時間か、それぞれお仕事を持ち家庭もありながら、時間を割いて下さっている筈です。何事も段取りや準備が一番大変です。その段取りをして下さることに子ども達への愛を感じます。イエス様の心を子どもらに伝えたいという思い。この為に苦労して下さるから意味があります。もし時間も割かず、苦労もせずに話せる人がいれば、それはあまり意味がないのでないか。苦労して下さるから意味があるのです。

  時々触れますが、「星の王子さま」に、「あのバラが君にとって大切なのは、君がそのバラの為に多くの時間を割いたからだよ」という言葉が出て来ます。そのもののために何時間も費やした。何十時間も割いた。それが愛です。時間を割かぬ愛なんてありません。むろん長さだけが大事じゃあないでしょう。祈りです。その人への忍耐強い祈りは愛です。

  前の讃美歌510番に、「まぼろしの影を追いて、浮世にさ迷い、移ろう花に誘われ行く 汝(な)が身の儚(はかな)さ 春は軒の雨、秋は庭の露 母は涙 乾く間なく 祈ると知らずや」という歌がありました。……

          (つづく)

                                         2017年11月12日


                                         板橋大山教会  上垣勝



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