根本のことが怪しくなっています


ノエル・ムアーさんに宛てた手紙のピーター・ラビットの挿絵(絵本とはむろん違います。ヒルトップのポターの家で)
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                                             パンと魚の感謝 (4)
                                             マルコ8章1-10節



                               (3)
  彼らが座るとイエスは、「7つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。」イエスの為されたのは単純です。7つのパンを感謝することです。4千人に給食するからと言って、何かまじないや呪文を唱えられません。ただ神なる主に向かって感謝されるのです。飾りも何もありません。不必要なことは何もされません。

  私たちの周りには、不必要なものが満ちているのではないでしょうか。あれをしなければならない、これをしなければならない。あの事も、この事もと心忙しいのです。今、子供たちの中に「置き去られ症候群」というようなものあります。お母さんは携帯やスマホをしています。メールが来ると直ちに返信します。子どもが「お母さん」と声をかけても、「後で」「後で」と目の前にいる子どもをほったらかしで、メールの相手と交信している。子どもは目の前で何かを訴えようとしているのに、真っ先に相手にされない。放って置かれるのです。子どもは、「ぼくなんてどうでもいいんだ」と思います。目の前にいる一番大事な子どもに目が行かないのです。大人とのやり取りで色々あるし、返信が遅くなれば何か言われるので一番大事なことを後回しにする。単純になれないのです。素朴になれないのです。欲も不安もあり、心が鎮められなくなり、静まらなくなっています。単純になり、主に向かえば希望が生まれるのに、色々な事に思い煩ってしまう。何を優先するべきなのでしょう。色々な条件が満たされてからというのでなく、単純に神の前に向かう事が必要ではないでしょうか。

  イエスは、2匹の小さい魚も神に賛美の祈りを捧げて、配るように命じられました。こんな状況で神に賛美などどうして必要かと思うでしょう。だがイエス様は、肝心なことはここにあると考えられるのです。私たちはこの根本の事が危なくなっているのです。この根本が怪しくなっている。だがイエスはこの根本の事、根源の所から始められるのです。

  イエスは7つのパンと2匹の魚の為に感謝し、心を込めて神に祈られたのです。お腹を空かす4千人の前で、たった7つのパン、たった2匹の魚。それを感謝される。皆がスゴイと呼ぶような素晴らしいものの為に感謝されるというのなら分かりますが、身近な、日常的な、目立たない、ごく僅かな事の為に感謝される。私たちは心踊るような事の為なら心を込めて感謝するとすれば、それはイエスの在り方と違う気がします。どれだけ小さい事にも心を込めて、感謝して神様から受けているだろうかと思います。

  この6月、テゼからの帰りにイギリスの湖水地方を訪れました。多くの日本人に愛されているピーター・ラビットなどの絵本を書いた、ビアトリックス・ポターが暮らした家や彼女と夫が普段ウオーキングしていた山野と湖などを訪ねました。今にもいたずら好きなピーター・ラビットが草むらから、ピョンと飛び出て来るかのような気がする田舎です。

  私はその時思いました。当然ですが、まさにあの絵本は創作です。彼女の独創的なイマジネーションが生み出したものです。彼女は湖水地方のどこにでもある目立たない日常性の中から、野菜畑で野兎と遭遇し、暖炉のそばのすき間からネズミがちょろちょろ顔を出し、猫が植木鉢のそばで日向ぼっこして立ち上がった瞬間に鉢を落としたりという、どこにでもある日常の中から、言わばそのハッと思う一コマを感謝して取り上げて――彼女は良く聖書を読みました――感謝を持って生かしたのです。僅かなものにインスピレーションをかき立てられないなら、あのような動物と自然と人間が一体となった素朴な絵本は到底出来なかったでしょう。

  イエスは僅かな、手元にあるもの、与えられているものを感謝し、神を賛美されたのです。その単純な神との関係の在り方に、尊く尽きせぬものが隠されているのではないでしょうか。

                               (4)
  イエスはパンと魚を配るように言われました。「人々は食べて満腹した。残ったパン屑を集めると7籠になった。 およそ4千人の人がいた」のです。

  どうして僅か7つのパンと2匹の魚で4千人が満腹したのか。不思議と言うしかありません。やはりイエスは神の子であり、そういう力を持っておられたのでしょう。

  ただここから幾つかの事を考えさせられます。5つのパンで7千人を養い、7つのパンで4千人を養われたのです。これは比例とか、反比例ではありません。そうではなく、みんなで分け合う方が、多くの者たちが満たされ、またパン屑も多く生まれるという事です。

  これは神の愛を示唆しているかも知れません。少しのものを分け合った方が、愛が多くなるのです。喜びが多くなり、微笑みが多く増産されるのです。

  分かち合いです。パンと魚を感謝を持って分かち合うのです。信仰の分かち合い。愛の分かち合い。イエスが中心におられる所には、この分かち合い生まれ、持たない人との連帯が生まれ、私たちの分かち合いがキリストの福音を証しするのです。私たちが中心になって分かち合うのでなく、イエスが中心に居て分かち合って下さる時に、この愛の豊かな分かち合いが起こるのです。イエスはそういう愛の連帯と奇跡を示そうとされたのではないでしょうか。


       (完)


                                         2017年11月5日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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