汚れたもの達の尊厳


ポターが愛した湖からHotelに帰ると朝食が用意されていました。蜂の巣蜜をたっぷりつけて食べる朝食は王様のような食事。
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                                           自然界の祝福 (下)
                                           イザヤ35章1-2節



                               (3)
  最後に、創世記にあるノアの洪水の話に興味深い事が記されています。神はノアの箱舟に、きよい動物たちすべてを7つがいと、汚れたものたちすべてを1つがいを乗せなさいと命じられたと言うのです。もし人間が考えるなら、舟には重量とスペースに制限があるという理由で、清いものや人間に益になるものだけを乗せ、汚れたものや害虫、役立たぬ不要なもの、人に不利益をもたらすものは除けと命じたかも知れません。少なくともその比を1000対1とか、100万対1とかにするかも知れません。

  先ほど申しましたように、農作物の害虫を駆除し、作物の病気を予防するため大量の農薬が使われるのは、人間が清くないとするものを除くためです。害を最小限に食い止めるためです。今、人類が他の星に引っ越しする時代が来ると予言する科学者たちがいます。イギリスのホーキングさんなどはその主唱者です。しかしそれに賛成したとしても、もしそういう時代が実際に来て、引っ越しの時は、必ず人数制限と優先順序が設けられるでしょう。その時、お金で判断するのでしょうか。知名度で判断するのでしょうか。IQで判断するのでしょうか。コネですか。ノアの箱舟の話はその時、重要な役割を持つかも知れません。

  ノアの箱舟の話は、神の寛大さ、度量の大きさ、即ち神の愛。そして神の正義を告げています。清いものと清くないものが7対1です。清いものだけが独占するのでないのです。清くないものをみな省くのではありません。家庭から清くないものを除いたら、誰が残ります?教会に清いものだけを集めたらどうなります?だが反対に、清いものが少数で、汚れたものが多数になることも神は喜ばれません。神はノアの洪水の後、世界に清いものを多く残し、清くないものを少なく残すことによって、人間が地上で不安がらず、安心して生活できるようにされたのです。逆だったら神経が休まりません。ただこのように配剤された神を信頼しなければ、明日への不安が尽きません。

  神の正義と寛大さに、神の愛に、人は学ばなければなりません。神は汚れたものも、有害なものも、自然の生態系の中に正しく位置づけられます。汚れたもの達の尊厳も守られるのです。汚れたものと人が見なしても、実は神の目からすれば清く、それは絶対に必要なのかも知れないのです。

  次の3節、4節には、「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。…』」とあります。人の目に、汚れたものや役に立たないもの、害になるものさえ、神には必要なものであるというのであれば、弱った手を持つ者やよろめく足を持つ者や心おののく者たちに御目を留められない筈がありません。神は、砂漠化する世界に生きる私たちすべてを励まして、「雄々しくあれ。恐れるな」と語られるのです。

        (完)

                                         2017年10月29日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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