自分との戦いとは


ウインダミア湖を船で渡り、ヒルトップのイーズ・ワイク・カントリー・ハウスに投宿。ビアトリックス・ポターが泊っていた宿です。やがて彼女はヒルトップに移住して来てピーター・ラビットを書きました。彼女はいつもこの道を通って1時間ほどモス・エクルズ湖への道をウオーキングしていました。眼下に見えるのはエスウエイト湖。
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                                        朽ちぬ冠を(上)
                                        Ⅰコリント9章24-27節



                               (序)
  今日も子ども達へのお話をありがとうございました。やはり聖書のお話には、素晴らしい香りと言うか、「きよさ」が漂っていますね。清さでなく聖なる「聖さ」です。それに愛とまごころも伴っています。

                               (1)
  さて、先週の所でパウロは、「何とかして何人かを救うためです。私は福音のために、どんなこともする。私も共に福音に与るためだ」と語って、彼の伝道の熱意を語っていました。

  今日はそれに続き、オリンピックのアスリートの譬えで、彼の生き方を記しています。ここからも彼の人生と伝道への情熱が伝わってきて、私たちも限られ許された命の時間を、真摯に生きなければならないと思わせられます。

  先ず彼は、「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい」と勧めます。

  「知らないのですか」とは、無論「よく知っているでしょう」という意味です。古代オリンピックは何と約1千年続きました。紀元前770年頃にギリシャオリンピアで始まり、西暦393年まで約1100年間ですから、ギリシャ人なら、オリンピック競技は誰でもよく知っていたのです。競技には大勢が参加しましたが、むろん栄冠を得るのはただ独りです。

  彼は競争をかき立てているのではありません。人生の競争は、一人だけが賞を受けるのではありません。ただ自分を甘やかさず、1等を目指そうというのです。甘やかさぬ、自分に厳しいあり方です。むろん、それが厳しいかどうかは神と自分しか分かりません。

  「競技場で走る者は」とありましたが、古代オリンピック・スタジアムは、180~200mのコースがありました。アテネオリンピア、またその他ではコースの長さが違います。場所によって違いがあるのは興味を惹かれますが、今日は申しません。スタジアムという言葉は、元は距離の単位で、1スタジアムは日没に太陽が水平線に沈み始める瞬間から、すっかり沈み終わる瞬間までの約2分間に、人が歩く距離を指しました。

  パウロは、人々や国や皇帝からでなく、キリストから賞を得るように生きなさいと勧めます。むろん彼は、自分だけがキリストから褒められようというのではありません。皆が1等を目指し、自分自身と戦って走ろうではないかと言うのです。人生はやはり自分との闘いです。自分へのチャレンジのない、自分に打ち克たない生き方は、次第に心が鈍り明るさを失いがちになりますす。

  その点、私たちのAさんは最近耳が殆ど聞こえなくなられたのに、92才で今も大学に学びに行って自分に挑戦しておられるのには励まされますし、Bさんもそうです。先週の日曜の深夜に、東大病院に腸閉塞で再入院されました。もう5、6回目、いや7、8回目でしょう。その度にお腹を切って閉塞部分を切除し、とうとう大腸がすっかりなくなり、遂に小腸を僅かに残すのみになっておられます。今回はどうなられるのか、ぜひお祈り下さい。でも、一旦手当てをして頂いたので、翌日、動かないとダメになるからと器具をつけて院内を歩いておられたのです。事が起こってもペシャンコにならず、信仰で勝利して行かれる気概に学びたいと思います。転んでもいいのです。転ぶのは恥でなく、転んで起きようとしないのが恥ずかしいのです。

  「あなたがたも賞を得るように走りなさい。」人生の目的を持てという事です。ここに彼が勧める生き方があります。人生の目的がなく、ただ惰性で生きている。どこへ向かって歩いているのか分からない。犬猫のようにただうろつきまわっているだけ。漂っているだけ。それでいいのか。むしろイエスを目指して賞を得るように走ろうではないかと呼びかけるのです。「賞を得るように走りなさい。」これは全世界の人々すべてへの呼び掛けでしょう。

  次に、「競技をする人は皆、すべてに節制します」と語ります。競技をする人たち、アスリートは皆、節制をしました。厳格に自制し、規律を持って自分に当りました。侮ってはなりません、2千年前の人もそうしたのです。

  私は節制の難しさを日々感じます。先日、家内が写真を整理していて、40代の写真を久し振りに見ましたら、細身で実に精悍な自分がいました。ところが今は10キロほど太ってダブつく所が出てこの始末です。精悍らしさが欲しいのでせめて5キロ程減量したいのに、それができないのです。

  その点、Cさんは半年ほどで4キロ程減量されました。それを聞き、彼に、「偉い!」「スゴイ!」と言いました。彼を舐める人が多かったですが、私は、私よりよほど優れていると思います。そうした矢先に、6月末に突然心臓発作で亡くなり残念でした。

  「節制」というギリシャ語は、力を自分の手の内にしっかり掴(つか)む事を言います。そこから、自分が自分の主人である事。自制し、自分をコントロール出来ることを指すようになったのです。

          (つづく)


                                         2017年10月15日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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