愛は祈りとなります



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                                          自由を生きる
                                          Ⅰコリント9章19-23節


                               (2)
  20節以下で、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました」とありました。

  これらの言葉から、彼が自分を頑なに固執せず、キリストによってどんなに柔軟で自由な人間にされていたかを窺わせられます。彼は軟弱(なんじゃく)な人間でなく、驚くほど自由な人間です。彼はユダヤ人を得るために、彼らのようになったのです。ユダヤ教徒に戻ったのではありません。彼らと日常を共にし、一緒に仕事をしながら、彼らもキリスト者になって欲しいと切に願って、躓(つまず)きになるものを持ち出さなかったのです。

  彼は、ユダヤ人にも、律法を持たない異教徒にも、その幾人かでも救おうと骨折り、福音が相手の心に届くために自分の個人的ないらぬ主張を控え、感情的にならず、出来る限り寛大さを持って彼らに接したのでしょう。

  彼らがキリストを知る人になるなら、その時、彼らの生き方が徐々にでも変えられるだろうからです。彼らも闇の中から光の中に移され、光の子として誠意をもって生きる人、キリストを大切にする人、平和を望む、公平な人、人々を神の光の中に置いて見る人になるだろうからです。

  「律法を持たない人のようになりました」ということも、彼自身はモーセの律法でなく、神の律法、言葉を変えればキリストの律法に従って生きていますが、律法を持たない異邦人の胸に飛び込み、彼らと喜怒哀楽を共にして生きたということです。それは異邦人を幾人かでも救うためです。彼は喜ぶ人と共に喜び、泣く者と共に泣き、隣人を自分のように愛するというキリストの律法の下で生きたのです。

  このようにパウロの伝道の仕方は、「すべての人に対して、すべてのものになりました」という方法です。これは二枚舌を使う事でも、二重人格者になることでもありません。万民に対し万人になるのは容易ではありませんが、彼は人を見て法を説き、努めてその人に寄り添って、その人と同じ目線になって生きようとしたに違いありません。古い言葉ですが、「虎穴(こけつ)に入らずんば、虎子(こし)を得ず」と言います。虎の穴に入らなければ虎の子どもを手に入れることはできない。危険を冒さなければ大事なものを得ることは出来ません。彼はそれを地で行くような人物だったに違いありません。

  話しの上手な人はいっぱいいます。一方的に自説を滔々と説いて人を惹きつける人も沢山あります。しかし、人と心を通わせることができなければ福音を伝えることはできません。相手の心に何かが一杯詰まっている間は、こちらの言う事を聞いてくれませんから、伝道は、相手の言葉に耳を傾ける事から始まります。相手の心が空になるまで話をよく聞いて、初めて相手はこちらの言葉に耳傾けるからです。相手は8割、自分は2割と何かの事で誰かが書いていました。気付けば喋りまくっていることがありますが、パウロが述べる「聞くに早く、語るに遅く」という事、これが伝道において、また人と交わる時の私たちの鉄則でありたいと思います。

  彼は、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」とも語りました。「弱い人」とは、元の言葉では力を欠如している人、無力な人、病める人などを指します。彼は、何故か強い人には強い人のようになったとは言いません。強い人は、キリストは不要だからでしょうか。あるいは、強い人はしばしば人をはじき飛ばすからでしょうか。

  イエスは、失われた1匹の羊を探される方です。弱い者やマイノリティの少数者と共におられた方です。「私の名において、この小さい者を躓かせる者は、石臼を首に付けられて海の底に沈められる方が遥かに良い」と語られた程に、弱い者、小さい者、力の欠如した者の傍におられた方です。だから、パウロ自身もキリストに従ってそのように低くなろうとしたのでしょう。

  そして、これらはすべて、「何とかして何人かでも救うためです」と語っています。「何とかして、何人かを」です。私たちは、何とかしてこの方を救えないかと考える時には、いつの間にかその人のために祈っています。その時は神に執り成しています。色々その人に問題があっても悪口を言いません。むしろ、その人を何とか救えないかと考えて、その人のために祈ります。伝道は祈りから始まるのです。その人のために祈ることなしに伝道はありません。

  この祈りが愛です。私たちが気になる家族や誰かのために祈れば祈る程、愛が本物になります。愛するとは、自分のことはさしおいて、相手のために祈る事だと言って過言ではないでしょう。

  皆さん、どうか祈る人になって下さい。ご家族や知人や、祈ってこの方に救いに与って頂きたいと思う伝道したい方を持って下さい。愛されるより、愛する方が幸いです。伝道したい、愛する人を持ってその人のために祈って下さい。


           (つづく)

                                         2017年10月8日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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