自由に謙(へりくだ)るってなかなかできません



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                                          自由を生きる
                                          Ⅰコリント9章19-23節



                               (1)
  今日も子ども達へのお話をありがとうございました。皆さんが普段暮らしておられる所で、小さな光る宝物を見つけて来て、子ども達にお話下さり、色々教えられます。

  さて、先週の個所でパウロは、私は福音を告げ知らせずにはおられない、福音を伝えなければ私は災いであるとまで語りました。そのことから、彼の伝道への熱情、またキリストへの愛がどれほど強かったかを知ることができました。

  彼はダマスコ途上での復活のイエスとの出会いによって、これまでのユダヤ教では分からなかった本当の神に出会ったのです。イエスという愛において自由な方、父なる唯一の神を大胆に指し示す方、自分を否定しさえして神を指し示す方に出会ったのです。

  イエスはある時、自分の所にやって来て「善き師よ」と言た富める青年に、「私は善き師でなく、神のみが善き師だ」と言われました。イエスは本当にそう考えておられたのです。神学をかじった人は三位一体の神という所から考えればこれはおかしいと思うかも知れませんが、神だけを善い方と語り、ご自分を神の下(した)に置いて、一種の自己否定をされたのです。「私は善き師でなく、神のみが善き師だ。」イエスは、はっきりとそこまで自分から自由であられた。だからパウロはフィリピ書で、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることを固守しようとは思わず、かえってご自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられた」と語ったのでしょう。

  また、謙(へりくだ)ってご自分を低くする方に出会ったから、「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」という自由な生き方が出来たのです。人間は誰しも自尊心や面子があって謙ることが中々できません。これが自由にできる人は何と素晴らしいかと私は思います。

  彼は、「すべての人の奴隷になった」と言っていますが、たとえ低くなって人に仕えても、それは敗北とは言えず、キリストにある時には、相手に取り込まれない本当の主体性を持った生き方が出来たからでしょう。また、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。…福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と語りますが、彼にとってキリストの福音がいかに力強いものであったかを物語っています。

           (つづく)

                                         2017年10月8日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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