大地に私の根を下ろす



 ビアトリクス・ポターの庭は今にもプロプシーの子どもたちが出て来そうでした(3)    右端クリックで拡大
                                ・


                                         批判された大使徒 (下)
                                         Ⅰコリント9章1-12節


                               (3)
  万全の反論と言っていいでしょう。ところが、ここまで語ったパウロは、一転論点を全く変えて、「しかし、私たちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます」と述べます。

  どこから見ても、今述べた権利はパウロたちにも当然あります。だがその権利を用いなかったのです。彼が使徒でないからでなく、ただ、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」と考えたからでした。

  逆に、もしコリントから支援を受けていれば、コリントだけでなく彼が創立した他の諸教会からも支援を受けているのではないか。彼は伝道のためと言いつつ、本心は金儲けや出世のためにしているのでないかという批判を受けないとも限りません。その様なありもしないことで批判を受けて福音の妨げになってはならないと考えて、あなた方から支援を受け取らなかったのですと言いたいのです。

  彼はこの論点を、次の13節以下で更に続けて、神殿祭司の働きを取り上げ、またイエスが語られたことに言及します。「あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」

  祭司も伝道者も支えられる権利を持ちます。だが、彼はここで全く独自の考えを展開して、「しかし、私はこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。」何と高邁な魂でしょう。彼は権利などと言う事から離れ、遥かに高いものを見つめています

  彼はさらに思いを吐露します。「誰も、私からこの誇りを奪ってはならない。もっとも、私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはならない。そうせずにはいられないからです。福音を告げ知らせないなら、私は災いです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。だが強いられてするなら、単に委ねられている務めです。では、私の報酬とは何でしょう。それは、福音を告げ知らせるとき、それを無報酬で伝え、福音を伝える私が当然持っている権利を用いないことです。」

  パウロは非常に高い価値観で生きています。その魂の高貴さは、悪意ある批判者には到底理解できないでしょう。だが一度でもイエスの愛に真実に触れた者は、その愛に何とか報いたい、私は何でもしたい、私の喜びは取り上げられてはならない、福音を告げ知らせないなら私は不幸だ。そういう思いになるでしょう。

  イエスの頭にナルドの香油を注いだ罪の女がそうです。彼女はイエスから罪赦されて、私はこのお方のために何でもしたいと思い、数百万円もする、いやもっと高価だったかも知れない香油を惜しげもなくイエスに注ぎました。それが注がれると、部屋中に芳しい香りを放ったのです。私自身は愚かな卑しい魂の持主ですが、イエスの愛に応えて少しでもそのような香りを放ちたいと願っています。

  キリストから授けられた莫大な恵みを考えると、伝道者の当然の権利を利用するなどという野暮な考えを持つより、死んだ方がましだ。それほどキリストの愛が熱く彼に迫っていたのです。いかに福音が一切の束縛から彼を解放し、自由にし、キリストの恵みで心満たされたか。十字架の恵みが彼に強く迫ったか。キリストの福音を語ることに私の最高の喜びがある。福音を語るのはビジネスではない。これを取り上げられたら一切を失う。私は災いだ。私への報酬とは、無報酬で福音を語る事。一人でも多くキリストを信じて救われる者が生まれること。神の栄光のために生きること。そのことが最高の喜びである。

  先日、春から秋にかけて土の上に出していた植木鉢を持ちあげましたら、バラや菊、ブーゲンビリアアジサイなど、殆どが鉢の底から根を出していて、鉢を持ち上げても動かないのです。パウロは神という、キリストという大地に本当に根を下ろしたのです。そして、ここにこそ、私たち全人類が誰でも根を下ろせるお方がおられることを知った。それを何とかして伝えたい。それが最高の幸せなのです。彼は自分の生きる人生を本当に愛せた人です。キリストによるなら誰でも、自分の人生を愛し大地に根を下ろせるようになれるのです。

  キリストに真に出会うなら、誰でも、権利の要求を越える程の高貴な魂にされるでしょう。それほどキリストの十字架の恵みは高く、深く、広大です。皆さんもパウロのような伝道の喜びに与って下さい。いや、皆さんがしておられるお仕事も――無報酬では現実の生活は成り立ちませんが――、気概としては、たとえ無報酬で行なってもいいと言う程に崇高なお方に出会って、ここに私の使命があるというような、他の人でなく皆さんなしには始まらない本物の仕事にして行って頂きたいと思います。お仕事でなくてもそういう場を持って頂きたいと思います。大地に根を下ろして生きるような日々の生活です。

       (完)

                                         2017年10月1日


                                         板橋大山教会  上垣勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・