批判された大使徒


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                                         批判された大使徒 (中)
                                         Ⅰコリント9章1-12節


                               (2)
  先ず彼は、「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」と語ります。パウロにとって、コリントの信徒たちは手塩にかけて育てた本当に大切な人々であったことが分かります。

  イエス様は、「私の言葉に留まるなら、あなた方は本当に私の弟子である。あなた達は真理を知り、真理はあなた方を自由にする」と言われました。パウロが、「わたしは自由な者ではないか」と言ったのは、イエスによって、民族や宗教などのしがらみ、そして自分の罪から自由にされた人であったからです。それを真に感謝していました。

  次に、私は「使徒ではないか」と言います。使徒とは、生前のイエスに従った人、キリストの復活の証人である人です。パウロは生前のイエスに従っていません。だがダマスコ途上で復活のイエスに出会って使徒とされた人です。ただこの点を小難しく考えれば、パウロは本当の使徒なのかという論証の難しい問題が起こります。批判者たちはこの点を突いたのです。鋭い人たちだったのでしょう。

  そこで彼は一歩下がって、「他の人たちには、私は使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです」と語るのです。私を通して信仰を得たのでない人たちならいざ知らず、あなた方は私から直接信仰に導かれた人たちであり、「主のためにわたしが働いて得た成果」である。そうなら、私は「少なくともあなたがたにとっては使徒」と言える筈でしょうと語るのです。

  それに加えて、「あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だ」と語って、あなた方がコリント教会に属し、今もこの教会を通して主に結ばれていること自体が、私が使徒である事の見まがう事なき生きた証拠だ。あなた方自身が私の使徒である事を証ししてくれていると論証したのです。

  彼は空理空論でなく、事実に即し、現実に立って1つ1つ論証して行く人です。彼は、何とかして相手に分かるように語って行く訳です。

  次に、「私を批判する人たちに、こう弁明します」と語って、数点挙げて反論します。批判者たちは、4節にあるように、パウロたちが「食べたり、飲んだり自由にする権利」さえ脅かすような酷い批判をしたのでしょう。

  それから5節、「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」パウロはこの時は独身ですが、パウロたちのプライベートなことにすら嘴(くちばし)を挟んだのです。今なら、伝道者が奥さんと何とかデパートの高級店に入って仲良く何かの買い物をしていたとか、信徒が働いている時間に2人で娯楽映画を見ていたといった批判でしょうね。こんな批判は信仰の中心である兄弟愛から出たものではないでしょう。頭から彼を信用していないのです。

  また6節、「あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。」パウロらが伝道に専念する権利さえ奪おうとしたのでしょう。

  7節、「いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。」これは当然のことで、誰にも許される当然のものです。

  8節では聖書に立ち返って、「わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。モーセの律法に、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。 それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です」と申します。これらは聖書が語っているように、家畜にも通用する権利であって、私は人間的な欲望に駆られて言っているのではありませんと申します。

  そして11節で本題に戻り、「私たちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか」と問い、他の伝道者たちが、あなたがたから報酬を得る権利を持っているなら、あなた方を信仰に導いた私たちは、なお更その権利を持っているのではありませんかと迫ります。

                              (3)
  万全の反論と言っていいでしょう。ところが、ここまで語ったパウロは、一転論点を全く変えて……

       (つづく)


                                         2017年10月1日

                                         板橋大山教会  上垣勝



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