知識は愛の僕(しもべ)


                       山頂近くの谷川岳肩の小屋         右端クリックで拡大
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                                          ひとりの神 (中)
                                          Ⅰコリント8章1-6節



                               (1)
  コリントは古代ギリシャの代表的な都市ですが、クリスチャンは偶像に供えられた肉を食べていいのかどうかを常に気にしていました。

  私たちが福井にいた頃、近くに佐佳枝廼社(さかえのみや)という家康を祭る大きな神社がありました。教会と同じ町内に在って、お祭りには町内会を通して佐佳枝廼社の名の付いたお菓子が配られましたが、初めてそれが配られて来た時、私は食べるのをためらいました。食べると幾分神社に同化されるような気がして、別に大した菓子でもなく最初の年は捨てたと思います。

  初めはというのは、教会員の方が毎年、その神社で盛大なお花とお茶会を主催しまして、私もその華展に招待されて見に行くようになりましたが、初めは牧師館にあるそのお菓子に妙な感じを持ったものです。

  コリントにも似たものがあった訳で、この場合は異教の神々である偶像に供えた肉を食べていいのかどうか、良心のやましさがないかという問題です。例えば、地元の人は結婚式を神殿で行ない披露宴をその一室で行なった訳です。すると招待したされたクリスチャンが、披露宴で出される偶像に供えられた肉を食べていいのかという悩ましい問題が起こったのです。それだけでなく、神殿に捧げられた肉の大半は市場に横流しされました。すると、肉を買う場合に、この肉は供えられた肉かどうかをいちいちチェックしないといけないとなると甚だ煩雑です。

  ただ教会には、そんなものは全然問題にならない人たちがいて、1節にあるように、「我々は皆、知識を持っている」、キリスト教の知識からすれば、偶像など全く実在しないのだから、偶像に捧げた肉を食べようが食べまいが、良心の呵責(かしゃく)で悩む必要はないと語って、恐れて食べない人を軽蔑したので、教会内がギクシャクしたのです。

  この問題に対して、パウロは先ず、「我々は皆、知識を持っている」と語る人たちの態度を取り上げて、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と語っていくのです。これは意味の深い言葉です。

  「高ぶる」という言葉は、元々、口でプーと吹く事を指しますが、そこから膨れる事、得意になる事、思い上がり、高慢になり、自惚れる事を指すようになりました。

  彼らは、偶像など実在する筈がない、ありもしない偶像を祭ってそれに肉を供えても、その肉に何かがのりうつる訳でなし、全く気にせず食べればいいのだ。何を君たちは寝ぼけた事を言って、異教の偶像に感染するかのように気味悪がったり、怖がっているのか。こう言って、先程も申しましたように素朴な人たちを嘲笑って、彼らの弱さを見下げたのです。

  しかし、コリントで生まれ育ち、これまで神々や偶像の存在を素直に信じて来た人たちは、偶像など実在しないと言われても、それに供えた肉を食べることは、その神々の前に出てその神々から肉を頂くような思いがするので、良心が咎められる気がしてすっきりしなかったのです。

  それで彼は、次の段落の7節以下で、「しかし、この知識が誰にでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんで来た習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。…あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、誰かが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。…」と語るのです。

  どうして滅びてしまうかと言うと、その人はそもそも気が弱いからなのですが、自分は偶像に供えた肉を食べてしまった。自分は偶像の支配から離れられなくなった。こんな自分はイエス様に申し訳なくて、もう近くに行けない人間だ。こう自分を責めて、キリストと関係を断ってしまうかも知れないからです。

  「真理はあなた方を自由にする」とイエスは言われましたが、真の知識は確かに人を自由にします。だがその自由が人を躓かせるなら、そこに愛が欠けています。イエス様の自由は人を愛する自由です。人に仕える自由です。

  パウロはそう語って、自分の事ばかりでなく、他の人たちの事を考えて欲しいと言い、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と語ったのです。前の訳では、「愛は人の徳を高める」となっていました。

  彼は知識を頭から否定しません。知識は必要です。しかし、それは知識ある者をしばしば得意にならせ、思い上がらせ、高慢にさせます。だが、愛は建設的である。他の人を育て、その徳を立てる。人だけでなく、愛こそ自分自身をも真に人間らしい者に造り上げて行きます。即ち、人も自分も、真の人間として形成して行くのが愛です。

  今は知識社会の時代です。しかし何事も知識の多さを誇って人に接してはならないでしょう。知識の多さ、知識の新しさ、その視点で人を見れば、上下関係で見ることになりがちです。だが、全ては愛の立場から人に接するべきだとパウロは語るのです。

  言葉を変えれば、知識は愛と結びつかなければ本当の意味で真価を発揮しないのです。そうでなければ、知識は却って断絶を深め、時には争いを起こします。「愛を貯金すると、優しさという利息がつく」という言葉を読んだことがありますが、本当だと思います。

  12才のイエスが、学者たちの真ん中に座り、彼らの話を聞いたり、質問したりされたことがルカ福音書に出て来ます。しかしそのイエス様は論争に勝っていい気になったのでなく、目や手足の不自由な人、当時悲惨な状態にあった癩など重い皮膚病の人、貧しい人などに神の愛の福音を語り、低い人たちと交わり、友となり、愛されました。キリスト教はその愛の上に生まれて来たのであって、知識も大事にしますが、知識が愛の僕になり、愛が知識を僕にして生まれて来ました。

  ですから、パウロはコリント教会の一部の人たちの高慢な態度を見て、彼らに欠けているキリスト教信仰の最も大切なものを語って行ったのです。


       (つづく)

                                         2017年9月24日


                                         板橋大山教会  上垣勝



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