泣かぬ者のごとく泣く


                チャペルの小道 Chapel passage です。         右端クリックで拡大
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                                          時は迫っている (中)
                                          Ⅰコリント7:25-35



                               (2)
  そうした中で彼は、「定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです」と語るのです。これが今日の中心です。

  彼はいったい何を言いたいのでしょう。「終末の時が切迫」しているので、結婚生活や職業生活、更に人と喜怒哀楽を共にすることなどを否定しているのでしょうか。この世の事に関心を示すな、程々にせよと諌めているのでしょうか。

  2、30年前、ノストラダムスの予言とかエホバの証人たちが、終末が近いと盛んに宣伝して、労働や結婚、貯蓄や年金を掛けることもためらわせる時代がありました。ミレニアム前の週刊誌はそんな話で持ち切りでした。彼は、まるでそんな終末預言をしているのでしょうか。

  確かに、「定められた時は迫っている」とは、時間がない、時は縮まり切迫しているとの意味です。特にここの「時」は、カイロスという言葉で、決定的な時を指しますから、世の終わりの決定的な時が切迫していると解せます。

  それを強調して、この世の生活は程々にせよ。程々にして深入りするな。程々にして距離を置け。そんなことを言わんとしているのでしょうか。

  だがイエス様に戻って考えれば、ヨハネ福音書は冒頭で、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と、イエスの到来を告げます。イエスは卑しく低い私たちの所に来られたのです。暗い現実の世界に来て、光を灯されました。私たちと連帯し共に生きられたのです。

  そうなら、イエスを信じる私たちはこの世から身を引けというのは、イエスに従う者として理屈に適うでしょうか。矛盾しないでしょうか。

  イエスはまた、サマリア人の譬えを語られました。祭司やレビ人が、強盗に襲われ瀕死状態になって倒れている人を避けて、向こう側を通って行ったが、善きサマリア人はその人を見て憐れに思い、即ちスプランクニゾマイ、はらわたが引き裂かれそうな痛みを覚え、気の毒に思って駆け寄り、直ちにその場で救急手当てをし、ロバに乗せて宿屋に連れて行って介抱した。翌日宿の主人に、今のお金で言えば2、3万円を渡して手当てを頼み、費用が余計に掛ったら、帰りに自分が払うからと言い残して出掛けたと言われました。そして律法学者に向かって、誰がこの人の隣り人になったと思うかと問われ、正しい答えをすると、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われたのです。

  イエスは、「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ」、それが隣人を愛する事だと考えておられたのです。それでパウロも、ローマ書12章で、「愛に偽りがあってはならない。…泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜びなさい。身分の低い人と交わりなさい」と語ったのです。愛は向こう側を通ることでなく、この世に深入りするものです。程々にすれば、人間の習性として避けて向こう側を通る事になり勝ちです。誰しも自分に患いが降り掛らないに越したことはないからです。

  イエスは世の現実を引き受けるために世に来られたのです。程々でなく、十字架に掛る程に、血を流してまで私たちの現実を身に負われたから、「光は闇の中に輝いている」と言われているのです。程々なら、光は闇に輝いているということになりません。

  従って、今日の所でパウロは、妻ある者も、泣く者も、喜ぶ者も、買う者も、世事に深入りせず、程々にしなさいと勧めているとは思えません。それとは微妙に違った事を言おうとしたのでないかという事です。彼は終末の近さを語り、世の有様は過ぎ去ると語りましたが、彼はこの2つを根拠に、世への関わりは程々にして、そこから身を引けと言ったのだろうかという事です。

  そうではなく、いい加減にするのでなくて、時が迫り絶対的な方が来られる。だから、妻を持たぬかのように深く妻を愛し、泣かぬ者のごとく相手に寄り添って真実に泣き、有頂天な喜びでなく落ち付いて喜び、世事に関わらぬ人のように淡々と関わるようにと勧めているのではないでしょうか。

  人はみな、相対的な世界に生きていますが、今や絶対的な方が来られる。その方が切迫している。だからこの方を知って生きなさい。深入りするなでなく、イエスは深入りされたのです。主キリストという絶対的な方が来られるから、私たちも喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く程に世に関わり、苦しむ人と共に生きなさいと説きたいのではないでしょうか。


      (つづく)

                                      2017年9月17日


                                      板橋大山教会  上垣勝



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