待てぬか、時を


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                                          待てぬか、時を (下)
                                         Ⅰコリント7章17-24節


                               (3)
  イエス・キリストは世の終わりの終末的な希望を指し示すお方です。それはこの手紙のあちこちで見られるテーマですが、今は見えなくても、終末にはキリストの勝利が明らかにされます。最後に勝利されるキリスト。その前では、この世の政治的決定や、経済的貧富のレベル、身分や男女差や民族、また運命や宿命も相対的です。決して絶対的ではありません。

  キリストを知った私たちは、その終末、最後の方、キリストを待ちながら生きています。やがて神によって決着がつけられ、全ての涙が拭われ、キリストの勝利が誰の眼前にも明らかになる喜びの時です。待てないのか、その時を。だがその時を待ちつつ生きる者には、世の不条理や不合理を越えていく力が、今、ここで与えられているのです。それはキリストの平和から来る力です。

  私たちはキリストに出会い、やがて来る終末の希望の光の下で生きています。この方はどんな世の尺度も身分も越える絶対的な方です。ですから、キリストの下で生きるならこの世の事柄はみな相対的ですから、絶対的な方を知る者は、落ち付いて、ユーモアを持って生きることが出来るのです。終末の希望を何者も取り去ることは出来ません。ですから奴隷であっても世の光になる事ができます。キリストの福音になることができます。福音となって自分を生かすことができるのです。

  最後に、「同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」と語り、「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです」と語ります。既に身代金の銭が支払われ、あなた方は買い取られたのです。銭とはキリストの十字架であり、それによる支払い(キリストの死による支払い)です。あなた方はキリストの命で贖われ、既に神に属し、神のものである。人の奴隷ではない。奴隷状態を超えている。それを超えて生きよ。奴隷・自由人の枠を超えて生きよ。神を仰ぐなら道が開かれるのです。パウロはこうコリントの信徒たちを鼓舞したのです。

  この夏、漱石の「門」を読んで感銘を受けました。彼は私小説の作家ですが、人間の心の深くまで探るやはり素晴らしい作家だと思いました。明治期の作家とは思えません。今も読み継がれる立派な理由があります。ただ、漱石はこの作品で、自分を超えられないことを仄めかしています。それで主人公に禅寺の門を叩かせています。だが門が開いてくれないと悩みを訴えています。そんな彼はノイローゼになりながら、やがて則天去私を目指してもがいて行きます。

  しかし聖書で言うなら、既にキリストは私たちの問題を超えて下さっているのです。既に、救いの道は通じています。イエスは、「命に至る門」となって下さったのです。ご自分が門を通り、門の中へとお呼び下さっています。門は開かれている。ところが漱石は自分で自分を助けようとするために、門の外、助けられない所に佇み続けるのでないかと思いました。池で溺れた人が、自分のひげを引っ張って自分で自分を助け出そうとするようなものです。彼の問題は、終末の希望の問題だと思います。


      (完)

                                     2017年9月10日




                                     板橋大山教会  上垣勝



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