心に平和があると


                      
ベイリオル・カレッジのコモン・ルーム。ハリー・ポッターの有名な場面と似ています。   右端クリックで拡大
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                                       待てぬか、時を (上)
                                       Ⅰコリント7章17-24節



                               (1)
  今日の個所に、割礼を受けている者とか、受けていない者。また自由人や奴隷が出て来ました。先週の所は、結婚問題で2千年前のコリントの特殊な事情が背景にありましたが、今日の個所でも当時の社会事情があります。

  先ず、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです」とありました。

  日本には「分をわきまえよ」という、今も使われる封建時代から続く言葉がありますが、ここで言われているのは似ていますが、若干違います。というのは、原文には身分とか、分という言葉は使われていないからで、文字通り言えば、「各々主から分け与えられた賜物の通り、神から命じられたまま歩みなさい」ということです。即ち神に応答して生きるように、神から授かった自分の課題を果たして生きなさいと勧めて、その前提に立って、クリスチャンになった今、割礼を受けている者や無割礼の者、また奴隷や自由人に、現在の境遇を受け入れて生きるようにと勧めるのです。

  パウロはここでは、今置かれた状況を変革することに消極的に見えます。当時、武装蜂起で身分の変革を求めたり、暴力で社会を改革する人たちがいましたが、彼は今ある状況を受け入れ、忍耐してしぶとくそこに留まる事を説きましたから保守的だと言えます。

  これは権力への迎合と映るかも知れません。その面は否めません。ただ彼の時代は宗教的にも、政治的にも、因習においても、がんじがらめに縛られていた訳で、彼の言う忍耐は単なる迎合でなく、やがて神が砕いて下さる時を待て、神の正義と公正を実行して下さる時を待て。どうして神の時を待てないのかということです。彼はまた、イエスが言われた、「剣と取る者は、剣にて滅ぶ」という意味をよく知っていたからでもあります。

  彼はどこまで保守的であったか、今もはっきりしません。というのは、21節は「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」とありますが、前の口語訳は「もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」となっていて意味が逆でした。これは、対立する2通りの写本があって、前の口語訳聖書は、「機会があるなら自由の身になりなさい」という写本を採用していたのです。私はそれがパウロの考えに近いと思います。

  いずれにせよ、パウロがここで語るのは、覆(くつがえ)せない自分の過去や境遇は受け入れて生きる道だと言えるでしょう。言葉を変えるなら、自分の状況を受け入れ、現在の自分と和解して生きる道です。何をするにも、心に平和がなければ担うべき荷も担えないからです。平和があれば担い方が違って来ます。

  割礼についてもそうです。割礼は、ユダヤ人男子が生後8日目に性器の包皮を切り取り、ユダヤ人の一員のしるしとした儀式です。しかし、そのユダヤ人がイエスを信じてクリスチャンになった場合、もはや割礼は問題でなくなったので、傷跡を消そうとする者らがいたのですが、彼は、「割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはならない。無割礼の者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけない。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです」と説いていったのです。

  即ち、過去の傷跡を消そうとするな。隠そうとするな。キリストによって平和を得たあなたは、過去をごまかさず、それを担ってあなたらしく生きなさい。キリストは必ず祝福の道を授けて下さる。だからそのまま信じて歩めと勧めたのです。自分の民族、人種、国籍、性別がいやな人がありますが、色々な過去や傷を持つ自分であっても、自分のアイデンティティを偽らず、それを嫌悪せず、勇気を持って自分の今を受け入れて生きなさいということです。

  7、8年前、薬物依存から抜け出すことを願って集まっていた人の中に、左腕にリストカットの無数の傷を持つ人がありました。中高生の時から始まり、長く、剃刀でリストカットを繰り返し、自分を傷つけて来た人です。家庭などに複雑な重苦しい原因があったのでしょうか。気の毒で胸が締め付けられました。腕に糸を雑然と巻いたように、無数の切り傷が盛り上がっていて、初めて見ると誰しも思わずハッと息を飲むでしょう。何十本とある傷に触らせて頂いたことがありましたが、涙がこみ上げて来ました。傷はこの人がいかに苦しんだかの証しです。私はその時、この方がキリストの愛を知るならこの傷は貴い財産になるだろうと思いつつ、涙と共に、キリストはこの傷のままあなたを愛しておられると声を大にして叫びたくなりました。

  キリストは、拭えない過去の傷のまま私たちを愛し、その姿のまま受け入れて平和を下さる方です。パウロはその事を言いたいのです。愛のキリストはラザロの墓で熱い涙を流されました。先程教会学校の子ども達に向けて読まれた個所にありましたが、飼う者のない羊のような多く群衆を、イエスはスプランクニゾマイ、はらわたが引きちぎられる程の痛みと悲しみを持って深く憐れみ、聖なる慈しみ、憐れみ、仏教用語を使えば最高の慈悲の愛を持って深く愛されたからです。十字架の叫びは、ご自分を救うためでなく、万人を救うため、救って平和を授けるため、聖なる慈愛を届けるためでした。

      (つづく)

                                     2017年9月10日




                                     板橋大山教会  上垣勝



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