この水を飲むものはまた渇く


     宿はオックスフォード駅の近く。自転車で駅の改札を通るカップルに会いました。   右端クリックで拡大
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                                          秘義である君の体 (中)
                                          Ⅰコリント6章12-20節


                               (2)
  パウロは、この問題に対して、かなり強力な歯止めになるものを語って行きます。万能の歯止めとは言えませんが、もしその意味を本当に理解して行くなら、かなり性の情念、その歪んだ爆発に歯止めとなるものです。そしてコリント教会を建て直すことができるでしょう。

  所で何度かお話ししているように、コリントはギリシャの町ですが、当時のギリシャ人は魂を貴ぶ一方、肉体を蔑(さげす)んで卑しいものと考えました。霊肉2元論から来るものです。キリスト教じゃ2元論的に考えませんが、彼らはそう考えました。その結果、二つの生き方が生まれます。一つは肉体の欲望や本能を抑えて、厳しい禁欲生活をすることです。もう一つは、肉体の事は大したことなく軽いものだから、肉体には何でも欲しい事をさせていいと説いたのです。欲望は思う存分満足させていいという考えです。食欲もそうです。それで、商都で豊かな町のコリントではいわば欲望全開派が主流を占めたのです。

  そのコリントの風潮の中に、「真理はあなた方を自由にする」と説き、「キリストは私たちを自由にした」と説くキリスト教が入って来ます。すると、自由なら何をしてもいい。「全てのことが許されている」と説く人たちが出た。イエスの言うことがそういうことではありませんが、そう取ったのです。

  そこでパウロは先ず、私たちは自由であり、全てのことが許されている。だが、全てのことが益になる訳でなく、人の徳を高める訳ではないと説いていきます。それが12節です。これは12章辺りでも繰り返して出て来ます。

  体については、体は食物なしには命を維持できません。食物と体は切っても切れない関係です。それと同じく、コリント人は、体は本能の為や子孫を儲(もう)けるためにある。即ち、本能を全開するために体があり、性行為のために肉体はある。だから肉体に好きなことをやらせるのが最もいいと主張したのです。これは今日では、欲望はためない方がいいとか、ストレスをかけず発散させた方がいいという考えに発展しています。現代日本はコリント的だと言っていいでしょう。

  しかし、先程も申しましたが、当然やがて体も肉体も食物も本能も滅びます。それで彼は、「神はそのいずれをも滅ぼされます」と語ります。

  そして次に、彼はキリスト教独自の考えを述べます。「体は主のためにあり、主は体のためにおられるのです。」

  「体は主のためにあり、主は体のためにおられる」とは、体は主によって造られ、主に向けて造られている、だから主を見出さなければ喜びはない、平和は来ないと言うことです。主を見出す時に、体にも心にも命にも、納得できる平和、平安が生まれると言うことです。何ものにも奪われることのない本当の喜びは、人間を超えたそういう深い所に根差す時に授けられる。

  反対から言えば、体は情欲の為にだけあるのではない。それは中心でなく、それによっては心は満たされないということです。むしろ、「この水を飲む者は、また渇く」ということが起こり、その様な心で生きれば生きるほど、悲しくなり、寂しくなります。人は情欲では魂が満たされるように造られていないからです。

        (つづく)

                                     2017年8月27日



                                     板橋大山教会  上垣勝



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