宗教と性のこと


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                                          秘義である君の体 (上)
                                          Ⅰコリント6章12-20節



                               (1)
  今日の題は「秘義である君の体」としましたが、今日は私たちの体の問題がテーマです。

  体と一口で言っても、若者の体があり、お年寄りの体があります。この年になりますと、電車の中で、つやつや光るような肌の若者が乗って来ますと本当に羨ましくなります。若い頃は思わなかったのですが、キラキラした肌に溜息が出ますね。ただその肌ももう50年すれば、いや10年かそこらで輝きを失い、もがいても戻って来なくなるでしょう。そして、いずれは滅びます。

  「若者よ、体を鍛えておけ」と私たちの青年時代に歌声喫茶でよく歌われましたが、鍛えた体も今や故障し、ポンコツになり、滅びます。運動でやや体力を保っていますが、この先どうなるのか心配しながら、プールやジムでの話題は「あなた最近、膝の調子はどう?物忘れは?」などと労りの会話です。

  13節に、「食物は腹のため、腹は食物のためにある」、これは聖書でなくギリシャの諺ですが、いつかは食物も腹も滅ぼされる。これが人の定めです。

  今日の個所は単なる体でなく、コリント教会の特殊問題ですが、先程の聖書にあったように性の問題を持つ体、しかも一線を超えた男女関係がそこでは問題になっていました。そのことは前回詳しくお話しましたが、13節は、「体はみだらな行いのためではない」と語り、15節は、あなたがたは自分の体の一部を「娼婦の体の一部としてもよいのか」と述べ、18節では、「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯している」と語っているように、みだらさや情欲の体の問題です。

  特殊な問題と言いましたが、性の事柄は毎週の週刊誌に溢れていないでしょうか。特殊と言いましたが、これは人間と切っても切れない事柄ですし、こうした人間関係で悩む人は無数にいますから、今日の聖書は人間の片寄った部分を扱っているのではありません。また、この手紙が宛てられたコリントの教会には、5章、6章にあったような情欲の問題、みだらさの具体的な問題があり、それを解決できないでいた訳で、パウロはそれを何とか解決しようとしているのです。それが7章いっぱいまで続きます。

  情欲と申しました。そんな言葉を聞くのは嫌だと思う方もあるでしょう。これは別の言葉で言えば恋愛や恋の問題です。恋はえてして盲目です。一旦その炎が燃えれば、男も女も、理性的な人もそれに振り回されます。そして時に、人をやたらと傷つけ、同時に自分も傷つけます。こう言うと、ご自分の若い頃を思い出して、心に疼きを覚える方があるかも知れません。

  これはフロイトとかユングなどが語ったリビドーの発動の問題です。性的な衝動が暴れまくり、本能的エネルギーで引き回される訳です。しかもこの本能のエネルギーが抑圧されて、恋の炎が勢いよくパッと燃えず、くすぶり続けるか抑圧され過ぎると、心や魂が病んで行く場合があります。精神病が性の問題とからんでいると言われるのはそこです。ですから今日の事柄は、決して小さな事柄ではありません。いや、人によっては人生最大の問題と言ってよいでしょう。事によったら、この事で人は大やけどをし、道を外し、人生を台無しにするのです。こんなものに振り回されるなんて、人間と言うのは実におかしい生物です。そこにまた人類の歴史の面白さや奥深さがあるのですからね。

  いずれにせよ、道を外す問題がコリント教会で起こった訳で、人を振り回す強力な性の問題、情欲や情念の炎のごとく燃える衝動の問題を、パウロは何とか解決するため、この衝動が一線を超えぬように奮闘していると言ってよいでしょう。

  彼はここで体系的な何かを語ろうとしているのではありません。急場しのぎと言えば語弊がありますが、情念の問題に対して一種の情念の言葉で語っています。

  古いですが、倉田百三の「出家とその弟子」をお読みになった方もあるでしょう。

  あそこで、ほぼ実話ですが親鸞の息子善鸞はこのリビドー、この性の衝動に振り回されています。元を糺せば父の親鸞にこの激しい性の衝動の問題があった訳です。その不始末で宿ったのが善鸞でしょう。父の血を継いで、善鸞も親戚の人妻に恋し、2人は無理やり引き裂かれてやがて人妻の方は死にます。それが善鸞を更に苦しめたわけですね。浄土真宗の開祖の中にあるのは、激しい恋の火であり、爆発する情欲の問題であり、性欲の問題です。それは恨みや妬みの問題にも発展します。それが激しく燃えて消せない訳で、問題は本能的なエネルギーですから人類に普遍的にのしかかっています。作者の倉田は、善鸞に、「もし世界を造ったのが仏であるなら、仏に罪を帰したい」と言わせていますが、深めて行くと、そういう際どい深刻な問題にもなります。仏はいるのか、神はいるのか。仏は善か。悪の存在を許すのか。ですから性の問題は、どんな宗教も避けて通れない問題です。

        (つづく)

                                     2017年8月27日



                                     板橋大山教会  上垣勝



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