人を美しくするのは愛です


             そのカレッジの正門から見るとこんな町並です。右端が宿。      右端クリックで拡大
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                                           「それ」を忘るな (中)
                                           Ⅰコリント6章1-11節


                               (3)
  パウロは、「兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」と語ります。

  クリスチャンが、些細なことで他のクリスチャンを信仰のない人の前に訴える。彼らの裁きを願い出る。それでは、単なる対処の間違いでなく、敗北である。信仰の完全な敗北だと言うのです。信仰の力がこの世の力に凌駕(りょうが)できないなら、この世との闘いにおいて、あなた方の信仰が既に敗北していると言う事です。

  そこで、パウロは一段深い所からこの問題に迫ります。それが、「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」という言葉です。「右の頬を撃たれれば、左の頬を向けよ」と言われたキリストの言葉に遡るあり方です。

  「不義」とはむろん不正です。害を受けることです。「奪われるまま」とは、騙されるまま、欺かれるまま、不当なことをされるままという事です。不当なことをされても、どうしてそのままにして置けないのですかと問っているのです。「右の頬を撃たれれば、左の頬を向けよ」という言葉がやはり背後に響いています。

  言って見れば、騙されれば騙されたままでいいではないか。即ち、兄弟か姉妹に騙されたからと言ってカッとなって怒るのでなく、「また騙されました」と言って、笑っていればいいではないかという事でしょう。目くじらを立てるのでなく、笑い飛ばす信仰です。主に全て委ねて、神が必ず将来解決して下さると大船に乗って主を仰ぐあり方です。

  そのあり方は、知恵に富んだ者、知識を持つ者から出て来ません。馬鹿にならなければできません。だが、愛からは出て来るのです。

  正義の義という漢字は、王の下に我があります。我が王になり、眼を吊り上げ、2つの角を逆立てる姿に似ています。人間の義や知識は、眼を吊り上げ、角(つの)を立て、神の確かなご支配も愛も忘れて自分の義を貫こうとします。箴言に、賢い妻は、「後の日を笑っている」、「その舌には慈しみがある」とあります。神に委ねてもっと楽天的に、のんびりすることです。

  パウロはこう語ってすぐ、「 正しくない者が神の国を受け継げない事を、知らないのですか。思い違いをしてはいけない」と語ります。正しいか、正しくないかは、神がお裁きになるのであって、正しくない者は決して神の国を継ぐことは出来ない。私たちがしなくても、神が最後的にそうなさるのです。

  そして彼は、「思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」と悲しみをもって語りました。説明は不要でしょう。信仰的罪、性的罪、そして強欲の罪、人を侮辱し悪口を吐く罪などです。悲しいことですが、彼らは神の国を継ぐことはないのです。

  だが最後に彼は語ります、「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」

  先週の最後と同じような所に来ました。コリント教会の中には、かつては9節以下で挙げたような人物が居て、さんざん人に迷惑をかけた。だが彼はキリストに導かれ、神とキリストの名、聖霊の御名によって洗礼を受け、聖なる者とされ、神の義に与る者になったのです。

  かつては悪口や中傷、嘘をつく人間、みだらで性的な罪を持ついやな奴だった。自己中心的な人間だった。ただ本人はなぜ自分がそうなるのか、自分自身の内に蠢(うごめ)く訳の分からぬ感情をどう扱えばいいのかが分からず、実はそのせいで本人は苦しんでいたかも知れません。ところが、何かのきっかけでそこからキリストの愛に深く触れ、彼が愛を持って働く者になったのです。奇跡です。これを奇跡と言わずに何が奇跡と言えるでしょうか。「神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」とは、この消息を語っています。

  人を美しくするのは愛です。物や化粧品ではありません。どんな高級化粧品も金銭も内面を美しくできません。愛だけです。愛は教会をも美しくし、気高くします。パウロは、その様なコリント教会になって欲しいのです。

         (つづく)

                                     2017年8月6日




                                     板橋大山教会  上垣勝



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