「それ」を忘るな


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                                           「それ」を忘るな (上)
                                           Ⅰコリント6章1-11節



                              (1)
  今日の題は「それ」に付点をつけて、「それを忘るな」に致しました。それを忘れるな。私たち日本キリスト教団は、8月第1週を、平和を考え、平和を祈る平和聖日としていますが、平和を求める者は、72年前の8月6日の広島の8時15分を決して忘れることは出来ません。9日の長崎も同じです。この日、史上初めて原爆という大量破壊兵器が使われ、この日から人類絶滅の危機が現実に迫ったからです。人類の自殺の危機が迫ったのです。今も地上に核弾頭が1万5千発以上あり、核戦争が起きれば地球に核の冬という異常低温の恐ろしい事態が発生して、人類は恐らく地球に住めなくなるでしょう。幸いこの72年間は人類は滅亡しませんでしたが、今後とも人類が存続するためには、人類が一致して核をなくそうと努力しなければ、いつ何時人類終末の日が来るやもしれません。

  原爆投下はまた、我が国が、近隣諸国を侵略した結果として起ったという面があります。これも忘れてならず、誤魔化せない事実です。ですから私たちが行なった植民地支配、そこで幾千万の命を奪ったこと。「それを忘るな」ということでもあります。

  このように「それを忘るな」という題は、過ちを2度と繰り返さない事、そして私たちは戦争でなく平和を祈り求める事を表わしています。

                               (2)
  さて今日の聖書では、コリント教会で、ある人が教会の仲間ともめ事を起こした時、教会の人たちに訴えず、臆面もなく外部に訴えたことが問題になっています。世の法廷に訴え出たのです。

  パウロは、「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」と語りましたが、知識を誇る人が多数いたコリント教会はまさにその通りになりました。知識は何とかして自分に有利になるように謀ります。知識をもって相手を懲らしめ、ギャフンと言わせたいのです。知識は良い側面を多く持ちますが、こういうトゲも持ちます。もしかすると、相手も知識で対抗して来たからかも知れません。それで両者が競(せ)り合って法廷に持ち出した。

  ちなみに、ギリシャ人は性格的に訴訟好きだったようです。今のアメリカのように法廷闘争は日常茶飯事でした。そういうこともあって、教会の兄弟姉妹の調停を受ければ別の解決の道があったのに、ごく詰まらないことを法廷に持ち出し、裁判沙汰にしたのです。

  知識が先立ち、愛が薄くなると、今でも、しばしばこういう不幸が起こります。用心しなければならない事です。

  もしかすると、当人は教会に訴えたかも知れません。だが2節に、「あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか」とあるように、教会は取り合わなかった。避けたのです。

  これらの事を伝え聞いたパウロは、2節以下で、「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」、と書いたのです。

  どういうことでしょう。主なるキリストは世をお裁きになられる。キリストは絶対的な基準を持ってお裁き下さる。天使をもお裁きになる。だからあなた方は、キリストの御心を探り、その戒めに従って、日常生活の些細な事件は自分たちで裁くべきで、外部の法廷に出して判決を仰ぐとような情けない態度であってはならないと言うことでしょう。

  臭いものに蓋をせよと言うことでも、世の裁判は不要だと言うのでもありません。パウロはフィリピで不当に逮捕された時、釈放されると、不当逮捕を上官が来て謝罪してから釈放して欲しいと申し入れ、上官が謝罪に来ています。また、エルサレムで逮捕された時は、皇帝の下での裁判を受けたいと上訴を申し出ました。

  教会と言っても天国ではありません。人の集団です。誤解や行き違いが起こることもあります。その時に間違った処理をしてはなりません。その間違いの1つがここにあるような、外部の力を借りてでも自分の正当性を貫こうとすることです。信仰から考えないのです。それからまた、自分の気に入らないことがあると教会をプイと去ることです。そういうことをしていれば、いつでも都合が悪くなればプイッと去ることになりますから、み言葉と正面切って向き合う事、即ち自分が神に変えられたり、砕かれたり、また相手も変えられたりする折角のチャンスを失います。自分自身と直面出来ず、成長出来ないでしょう。逃げていてはならないのです。ここで器を大きくして信仰に留まる時、これまで分からなかった事が起きるでしょう。ところが筋違いのまずいあり方をしてしまえば混乱を起きます。ですからキリストの和解の福音を聞いた者として、教会の中で、誤解を解くために、主の前で謙虚に対話しなければならないということでしょう。この事も忘れてはならないものです。

         (つづく)
                                     2017年8月6日



                                     板橋大山教会  上垣勝



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