よいパン種


 宿の前は名門校で、英のヒース首相や独のヴァイツゼッカー大統領の出身校。雅子夫人もここの出とか。
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                                            よいパン種 (下)
                                            Ⅰコリント5章1-8節
 

                              (2)
  本人が、以前は「みだらな行ない」をしていたにしても、今はそれをやめようと切なる願いを持ったのなら、それはそれでいいでしょう。聖書にそういう人があちこちでて来ます。やめたいという願望を持っているか、持っていないか。

  何かの依存症になると、なかなかやめられないようです。お酒でも、薬物でも、ギャンブルでも、その他にも色々な依存症がありますが、ほぼ同じです。やめたいと思ってもやめれない。すると、長年依存する中で、こんなことを続けていれば一生がダメになる。行きつく先は精神病院か、刑務所か、死が待っていると予感するのです。それで何とか抜け出したい。だが抜け出せない。そんな中ですっかり行き詰って、病院とか警察とか、福祉事務所とか、色々な所からNAとかダルクなど、依存症の回復プログラムを紹介されて、やっと回復のスタート・ラインに辿り着きます。その時、「やめたいと言う願望」があれば必ず回復します。だが、本当にやめたいと思っていないと、いつかまた再発する可能性大です。舐めているとダメです。心を開いて、正直でないと化けの皮が現われるのです。

  しかしこの場合は病的な依存症ではありません。自覚すれば誘惑を断ち切れます。ところがコリント教会は見て見ぬ振りをし、高ぶっている。2節に、「むしろ悲しんで…」とあるように、本当の悲しみ、悔い改めに至るような深刻な悲しみを持つべきだが、そうしないが故に、パウロは居ても立ってもおれずにこの手紙を出したのです。

  彼は、「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったか」と言いました。これは破門です。除名です。除名や破門が必要なのでないかと、思い切ったことを書きます。

  「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています」という言葉も、それを指します。教会には破門や除名があると、「地の塩、世の光」である教会は自らに厳しくあり、身を正すべきだとパウロは考えるのです。

  また、「わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」と、更に厳しい事を述べています。ただ、単に怒って追放するのでなく、終末の日に彼も救われるためだと言って調整しています。付け加えれば、教会は安易に追放や破門をすべきではありません。時々、教会の方が!、間違っている場合だってあるからです。これは強調しておかねばなりません。

  異教世界に取り囲まれた豆粒ほどの小さな教会は、異教の性的ルーズさや退廃によって常に晒されていたでしょう。6章12節で、「私には、全ての事が許されている。しかし、全ての事が益になる訳ではない」と書いているのも、これと関係します。信仰によって君は自由だろう。じゃあ、もっと性に対しても、男女の交際においても、何に対しても、自由に振舞っていいじゃあないかという誘惑です。パウロはそれに対して、私たちの自由は人の徳を高めるための自由であり、人の益にならない自由はキリスト者の自由ではないと述べて行きます。

  最後に、6節半ばで、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と書いています。

  パウロはコリント教会の高ぶりを諌めた後、パン作りの比喩を使って語ります。バケツ一杯の練り粉でも、ごく僅かなパン種でふっくらと膨らみます。パン種が腐ったり、悪かったりすれば、焼き上がったパンは実に嫌な臭いがします。

  教会も同じだと言うのです。異教の古い世界の生き方、悪意や邪悪な生き方が教会に入れば、教会全体がそれに影響され、キリストの香りが漂うのでなく、すえた臭いが漂うものになる。

  ところであなた方は、「過越の小羊として屠られた」キリストによって罪の中から救い出され、贖い出され、罪を拭われ、聖なる者とされた人たちです。「わたしたちの過越の小羊として屠られた」キリストによって、この世の邪悪や悪意のパン種を払拭されたのです。

  その純情さ、その純粋さを持ってコリント教会を形成して下さい。そこにあなた方の将来が掛っています。パウロはそう述べたのです。言わば良いパン種を持って教会を形成し、社会で生きることです。

  先週、日野原重明さんのことを取り上げました。ヨド号ハイジャック事件で命拾いし、サリン事件で多くの人を聖路加病院に受け入れて命を救いました。そこから、自分は今後、自分のために命を使うのでなく、人のために命を使おう。命を使う。即ち使命に生きる。ミッションに生きようと決意して、105才になりながら、ホスピスで終末を生きる人に命を使って行かれました。命が一番大切だから、若者を戦争に押し出そうとする政権にも反対したのです。

  私たちは殆ど自分のために命を使っています。だがある時点から、人のために命を使う生き方へ転換する。よいパン種として生きるとは、それです。キリストが愛されたように、人のために愛を持って生きようとすることです。

  パウロは、「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おう」と呼びかけました。私たちは家族という練り粉に入れられたパン種です。職場という練り粉に送られたパン種です。色々な所にパン種として置かれています。このパン種が、よいパン種として作用し、よい香りのパンが仕上がるように、キリストは私たちを用いようとしておられるのです。


          (完)

                                     2017年7月30日



                                     板橋大山教会  上垣勝



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