祝福される狭き門


                        車中、前の座席の人の手の動き(2)
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                                          祝福される狭き門 (下)
                                          マタイ7章13-14節
                                          創世記22章1-19節



                              (3)
  アブラハムは「狭い門から」入って行ったのです。実に細い険しい道でした。心が潰れそうになる道でした。だが彼はその道を避けず、そこから逃げず、最後まで歩み通し、信仰の極限まで歩き尽くしたのです。

  彼はイサクを献げ切ったと言っていいでしょう。手を下していませんが、恐ろしいことですが、既に心の中で神に献げ切っていました。だが、心の内を見られる神は、彼の信仰、神への信頼を見て藪の中に小さな小羊でなく、立派な大人の雄羊を備えられたのです。これ程に狭い門、細い険しい道はありません。同時に、これ程素晴らしい祝福もないでしょう。

  ところで、ここが重要ですが、イサクは自分が焼き尽くされる薪を負って行きましたが、イエスはご自分が磔になる十字架を負ってゴルゴタの丘に向かい、十字架で磔になりました。神はイエスを助けず、完全に焼き尽くされたのです。その死は、完全に焼き尽くされる死であったと言っていいでしょう。

  イエスが十字架上で、「成し遂げられた」と言って深く頭を垂れて、息を引き取られたのは、焼き尽くす献げ物として完全に献げ尽くされたことを意味します。

  イエスが完全に焼き尽くされなければ、世の救いは確立しなかったのです。もしそうなら偽りの救いが今よりもっと多く蔓延したでしょう。

  イエスは、命に至る「狭い門」になって下さったのです。救いの門になって下さったのです。「狭い門から入れ」とは、救いを実現したイエスを信頼し、イエスという門から入って、永遠の命に与りなさいという意味です。

  注意してお聞き下さい。キリスト教信仰というのは、神を信じることではありません。神でなく、キリスト・イエスを信じるのです。神は信じられなくてもいい。イエスを信じることです。神を信じようとしても、神は居るのか、居ないのか分かりません。誰が分かるでしょう!居るとも、居ないとも言えます。だから、神は信じられなくてもいい。キリストを信じればいいのです。

  だが、キリストを信じる時に、神が分かって来ます。キリストに導かれ、神の愛がグングン分かって来ます。そしてこのキリストを通って、神と交わり、神の命に、その喜びに至ることができるのです。

  イエスが、「私は世の光である。私に従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われたのは、イエスこそ狭い門であり、命に至る道であるからです。このお方を通って行く時、暗闇の中を歩きません。命の道を備えられて、命の光を持ち、命に光を持って歩くようになるでしょう。

  「神は、その独り子をお与えになる程に、この世を愛された。それは御子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とヨハネ福音書は語ります。この独り子です。この方が永遠の命に至る狭き門です。狭い門です。だが中に入れば広々としていて、永遠から永遠にわたって実在される神が笑顔で私たちを待っておられます。このお方を知る時、何も恐れることはありません。死ももはや死ではありません。神は、私たちの生をも死をも越えて、私たちを生かし、永遠に生きておられるからです。


          (完)


                                     2017年7月16日



                                     板橋大山教会  上垣勝



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