神にあかんべ


         Guildford からWaterlooへの帰り、前の座席の人の手の動きに目を見張りました。
ちなみに、Waterloo駅はロンドンで最も混雑する駅で8月に改装が予定されています。相当混乱しそうです。
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                                          祝福される狭き門 (中)
                                          マタイ7章13-14節
                                          創世記22章1-19節



                              (2)
  創世記のアブラハムは、3800年前の人です。神話の人物でなく、歴史上の人物ですが、「狭い門」から入った人と言えるでしょう。彼は75才になって、生まれ故郷を後にし、父の家を離れ、行く先を知らずに、主のみ言葉に従って旅立ちました。大変な信仰の冒険だったと思います。

  彼は大いなる国民になると約束されましたが、中々子どもが生まれない。それで、妻サラの勧めで婢(はしため)との間で子どもを作ります。だがそこからまた信仰に戻って行く訳で、非常に人間味のある人物です。そして彼が100才、妻が90才になって子どもが生まれました。望み得ないのになお望みつつ、不可能を可能として下さる神を信じ、実子イサクを授けられて、心から神に感謝します。それが創世記22章に出て来るイサクという少年です。

  ところが今日の所で、この愛する独り子をモリヤの山で、神への焼き尽くす献げ物として献げよと命じられたのです。彼は耳を疑ったでしょう。だが、主の命令だと知って一層気が動転したでしょう。かわいい我が子を殺し、犠牲の供え物として神に献げよ、息子を焼き尽くして献げよと言われて、神は何と冷酷非情な存在かと思わない親はないでしょう。もし今日そんな親がいれば、親は錯乱状態だと言うので直ちに警察に通報されます。いや、通報すべきです。

  だが彼は、翌朝早く、ロバに鞍(くら)を置き、薪(たきぎ)を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた山に向かったのです。誰にも本当の事は言えません。それを胸に堅く伏せて、心張り裂ける思いで、何も知らない幼いイサクを連れて行ったのです。小さいイサクが一行の先に立ち、後になって、虫や蝶を追いかけ、見知らぬ花を摘んだり、草原を駆けて行って草むらに隠れたり、父との旅を喜んでいるのを見て、アブラハムの胸は締め付けられたでしょう。

  3日目にモリヤの地に着くと、2人の従者をそこに残し、息子に薪を背負わせ、自分は手に松明とよく研いだ刃物を持って山を登って行きました。子どもは父親に遅れじと、歯を食いしばって登って行ったでしょう。父は父で、子は子で、無言で何かを考えつつ一足一足踏みしめて登ります。やがて急な坂を登って平坦な所に出た時、子どもは暫らくもの思いに耽っていたかと思うと、前を行く父親に、「父さん、薪も火もあるけれど、焼き尽くす献げものにする小羊はどこにあるの」とあどけない顔で聞いたのです。子は子なりに、父は小羊をどこで手に入れるんだろうと案じていたのです。

  九州にいた頃、長男がまだ4、5才の時に、どんな時だったか記憶が薄れましたが、日常生活の中で「贖罪って、じゃあ、イエス様は僕らの罪のために十字架で身代りになって死んで下さったってことなの」と聞きました。私は驚いて、「そうだよ」と言いましたが、あどけない4、5才の子どもでも、大人が考えていることを考えるんだと思いました。

  アブラハムはとっさに、「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えたのです。子どもは天真爛漫に父を見上げて問ったのです。問われた父の答えは、ごまかしであったか、実際に彼が信じていた事であったか、書かれていません。ただ、「きっと」と強調している所に、彼の心が透けて見える気がします。だが子どもに聞かれて、こう答える以外にどう答えられるでしょう。お前を殺し、焼き尽くす献げものにするのだとは口が裂けても言えません。やはりアブラハムはウソを言ったのでしょうか。

  やがて神に命じられた場所に着くと、彼は黙々と祭壇を築き始め、その上に薪を並べ、遂に息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せたのです。子どもは抵抗したか、従順だったか、逃げ回ったか書かれていません。そしてよく研いだ刃物を取り、振りかざして、可愛がって来た愛する我が子を屠ろうとしたのです。

  1節に、「これらのことの後で、神はアブラハムを試された」とありましたが、アブラハムは試されているとは知りません。彼がどれ程神に真実に、一番大事なものを捨てても神に従う人間であるか、その信頼度を試しておられたのです。そんな事ともつゆ知らぬ彼は、胸張り裂けんばかりになり、唇を噛みしめつつ、愛する息子を屠ろうと刃物を握りしめ、今まさに振り下ろさんとしたのです。

  その時、「天から主の御使いが、『アブラハムアブラハム』と呼びかけ、彼が、『はい』と答えると、御使いは、『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子すら、わたしにささげることを惜しまなかった』」という声がしたのです。あなたは、自分の独り子さえ惜しまず私に献げようとした。あなたの信仰、神への信頼が本物であることが今分かったと。

  「どこを切っても、血が吹き出る信仰」という言葉がありますが、私たちの信仰はどうでしょう。信仰と人間の真実性が試されたのです。先程も触れましたが、洗礼を受けても欲で動いている人間はダメです。言葉で言う建前は違います。だが本音は欲で動いています。その時は騙せても後で他の人にも分かります。どんなに皆の前で激烈に祈っても、それは偽善です。人為的です。後で、神にあかんべしているようなものです。神は心を見られます。

  彼は、これは誰だろう、何だろうと思って、手を挙げたまま後ろを振り向きました。「すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられて」動けなくなっていたのです。彼は直ちに「雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」この日、モリヤの山から、焼き尽くす献げものの香ばしい煙が、天高く昇って行くのが見えたでしょう。

  アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っているとありました。口語訳では、アブラハムはその所を、アドナイ・エレと呼んだ。それにより、人々は今日もなお、「主の山に備えあり」と言うとなっていました。分かりやすい訳でした。

  彼は心から主に感謝したでしょう。我が子と自分が助けられただけでなく、主の山に、即ち、信頼を持って主を信じて行けばどこにおいても、主は必ず備えて下さると言う、掛け替えのない信仰の真実、人生の真理を知ったからです。「主の山に備えあり」。人生で1つの真実が分かるだけでも凄いことですが、彼は万民に通じる真理を悟ったのです。

  もし神が備えて下さらなければ、彼は息子を殺していたでしょうか。殺人者になっていたでしょうか。だが、神はそんな事をなさる筈がないのです。「主の山に備えあり」、主なる神を信じる者には必ず備えがあるのです。時間がかかっても必ず備えられます。急ぐとしくじります。また、神が助けに来るかどうか試してみようというのでもありません。それは神信頼でなく、神を試みて見よと語りかけるサタンの誘惑です。

          (つづく)


                                     2017年7月16日



                                     板橋大山教会  上垣勝



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