恨みは私たちの心を蝕む


           フランスでAさんから貰いました。ホンコンの雨傘運動:凡事可成真+(雨傘)
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                                          祝福される狭き門 (上)
                                          マタイ7章13-14節
                                          創世記22章1-19節



                              (1)
  今日は「祝福される狭き門」という題ですが、神に祝福されるのは狭い門であると、狭き門は実は祝福の道だという事をお話したいと思います。最初に狭い門についてお話し、次にアブはラムについて、最後にイエスについてお話し致します。また今日のお話は、明日の一日夏季集会にむけた発題というか、この個所を巡ってみんなで考え合うきっかけにしたいと思います。

  この個所は3月末に取り上げていました。ですが、今日は別の視点でこのイエスの言葉を取り上げて見ます。と言っても少し触れますと、その時申しましたが、アンドレ・ジイドの「狭き門」は、カトリックへの彼の誤解があの小説になった訳で、戦後の日本で、まるでジイドが描いた「狭き門」が、イエスが説いたものであるかのように誤解されたのは、本当に残念なことです。フランスでは当初から批判がありましたが、日本ではあまり紹介されなかったのです。

  イエスは「狭き門から入りなさい」と言われたのです。人が挫折するような、入れない門、入らせない門を言われたのではありません。入れる門であり、祝福の門です。喜びに至る門です。

  イエスご自身が「狭い門」を通ってお入りになり、門の中から、さあ、この門から入って来なさい。滅びに通じる門は広い。その道も広々として、そこから入る人が多い。だが、この門は命に至る門です。命に通じる門はなんと狭く、その道も細い。それを見いだす者は少ない。

  イエスは、私はこの狭い門から入りました。私は羊の門、羊たちが命に至る門です。さあ、この門を通って来なさいと言われたのです。イエスが門の外にいて、さあ、この門から入れと命令したり、ジイドが書いたような最後は主人公が自殺するしかないような厳格な門を通れと、イエスは言われたのではありません。

  ただ、かなり命令口調です。イエスは私たちの自由を尊重されましたが、ここでは、これが命に通じる門だと断言されるのです。ここに真の命の門があり、これ以外にない。「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」と言われたのです。この門は人一人が通れる門で、皆で並んで入れる、猫も杓子も入れる、だだっ広い門ではないという事です。

  誰も生まれる時は一人、死ぬ時も一人です。それと同じです。救いに至る道も、あなたが一人で通らなければならない。誰もあなたに代わることはできません。あなた独自の道です。その事をごまかす、安易な門や広い偽りの道を退けられました。真実一路とも申します。キリストは愛を説かれたとは言え、真実一路であって、事実を曲げて、誰もが安易に行けるように言う、だだっ広い道を指し示されないのです。

  今は母性の時代だと言われます。人への思い遣りを持ち、誰も傷つかず、全てを包み込み受け入れるのが母性愛でしょう。キリスト教は母性的です。だが誤解してならないのは、父性的でもあります。2つの面を持つから、この信仰はバランスが取れているのです。母性だけ、父性だけ、そういうのはアンバランスだし、危険です。ただ今日の個所は母性でなく、父性が前面に出ている個所です。

  それで、滅びに通じる門をイエスは率直に、「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」と退けて、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と語られたのです。イエスの愛は混じり気ない、真実な愛であるからです。

  先週、中国の人権活動家でノーベル賞を受賞した劉暁波(リウ・シャオ ポー)さんが、欧米での治療が許されず癌で亡くなりました。この方は社会が変わるために非暴力という「狭い門」から入って、それに生きた方でしょう。友人に牧師やキリスト者を多く持ち、キリスト教の影響を強く受けていました。またキリスト者に影響を与えました。天安門事件のあと、9年前に「08憲章」が出された時は、303名の署名者の1割がキリスト者でした。日本からの独立運動だった朝鮮の3・1独立運動の署名に似ています。

  天安門事件の時、騒然とする中で学生がどこかから銃を持って来たそうです。だが、彼は直ちに取り上げ、皆の前で壊したのです。棒を持つことも禁じたのです。「恨みを捨てよう。恨みは私たちの心を蝕む。私たちに敵はいない」と訴え、「最大の善意を持って政権の敵意に立ち向かい、愛によって憎しみを消し去ることが出来るように望んでいる」と説き続けました。これはイエスの敵をも愛する精神が結晶したものと言えます。

  「狭い門より入れ」。これは個人的な問題から、国や国際間の極めて今日的な生き方の問題であると言っていいでしょう。

  「滅びに通じる門」とあるのは、滅亡や破滅に通じる門です。イエスは、「そこから入る者が多い」、甚だ多い、大量にいると言って、そうした生き方を否定されたのです。欲に駆られる者が多いのです。一旦洗礼を受けても、欲に駆られて教会を捨てて行くなんてことも起こります。

  それに対して、「命に通じる門はなんと狭く」と強調されました。それは人が自覚的に通る道であり、険しい道であり、見出す者が少ないが、そこに命に至る道が存在するのです。

          (つづく)

                                     2017年7月16日



                                     板橋大山教会  上垣勝



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